第26話 市場の取引
四十八日目。第十一層の市場に、支部長が立っていた。
眼鏡のつるを何度も押し上げて、光る苔の壁を見回している。
協会の制服の上に、探索者用の防護服を重ねていた。サイズが合っていなくて、袖が余っている。
四時間の階段で、支部長の荷物は、途中からハヤテさんの背中に移っていた。荷物持ちの登録は、こういうときに役に立つらしい。
「……十年、地図の上でしか、見たことがなかった」
支部長は、誰に言うでもなく、そうつぶやいた。
非常体制に入ってから、三日。
支部の会議室では、毎日、怒鳴り声が上がった。
魔物の通り道を空けるなど、聞いたことがない。
魔石で食っている探索者が、この国に何万人いると思っている。ゴブリンの紐が、本当に信用できるのか。
本部の理事の一人は、電話の向こうで、こう言ったそうだ。
――通訳一人の耳に、国の判断を預けるのか。
霧島さんは、その電話を切ったあと、支部長にだけ言った。
「預けるのは、耳ではありません。記録です。……全部、公開しています」
それで、支部長は、自分で下りてくることにした。
自分の目で見ないものに、判は押せない、と言って。
◇
ガラは、いつもの岩の上ではなく、市場の真ん中の、平たい石の前に座っていた。
取引の石だ。
ゴブリンたちが、茸や水を取り替えるときに使う石。その上に、今日は何も載っていない。
私は、支部長とガラのあいだに座った。
ズズの容器を膝に載せる。ハヤテさんは、私の後ろに立った。盾は、背中に回したままだ。
「始めます。……まず、協会から、です」
支部長が、紙を読み上げた。
私が、それを短く区切って、日本語のまま言い直す。ズズが泡で伝え、ガラが聞く。
一つ。人は、第十一層から上の、決めた通り道を空ける。旧坑道も含む。通り道では、魔物を狩らない。
二つ。下から逃げてくる魔物が、その道を上るときは、人の前に立たない。人を噛まない。
ガラは、黙って聞いていた。
それから、指を一本立てた。
「足りねえ」
支部長の眉が動いた。
私は、ガラの次の声を待った。
「上るやつを、減らしてやる。……下から来るやつは、全部、ここで止める。この市場で、食わせて、寝かせる。上へ行くのは、ここに入りきらなくなったやつだけだ」
「……市場に、集めると」
「第十一から、第十三まで。オレ様たちの縄張りだ。そこに、人は、刃を持って入るな」
支部長は、手元の地図を見た。
第十一層から第十三層まで。その中に、第十二層の東の端が、入っている。
支部長は、何も言わなかった。
ただ、地図の上の、その場所に、指を置いた。
◇
「なんで、止めてくれるんすか」
ハヤテさんが、後ろから聞いた。
私が訳すと、ガラは、ハヤテさんの盾を見て、鼻を鳴らした。
「てめえと同じだ。後ろに、群れがいる」
「……っ」
「下から来るやつらが、上で斬られたら、怒る。怒ったやつは、噛む。噛まれた人間は、また斬る。……十年、それの繰り返しだった。数えるのも、飽きた」
数えるのも、飽きた。
十年、一日も数え落とさなかった者の言葉だった。
支部長は、長いあいだ黙っていた。
それから、眼鏡を外して、ガラの目を、まっすぐ見た。
「……条件を、のむ」
そこで、霧島さんが、一歩前に出た。
「一つ、足したい。通り道に、合図を置く。第八層の長老の糸と、スライムの『みち』だ。上る魔物が、どこを通ればいいか、迷わないように」
私が訳すと、ガラは、喉の奥で笑った。
「糸のじじいか。……あいつは、とっくに、そのつもりだ」
二十二日目に、長老は巣じゅうに伝えていた。人が来たら、道を教えよ、と。
ガラは、それを知っていた。糸は、層をまたいで、話を運ぶ。
ガラは、それから、指を四本、全部折った。
それから、首の紐の束から、新しい紐を一本、引き抜いた。
「取引は、結ぶ」
◇
ガラは、新しい紐に、結び目を二つ作った。
一つは、人の約束。
もう一つは、ゴブリンの約束。
「どっちかが、ほどけたら、取引は、終わりだ。……人は、紙に書くんだろ。てめえも、書け」
私は、ノートの新しい頁を開いた。
支部長が読み上げた二つと、ガラの言った二つ。四つの約束を、一行ずつ書く。
最後に、日付を書いた。
四十八日目。五月十七日。
支部長が、その頁に署名をした。
ガラは、紐をもう一本取って、私の手首に巻いた。結び目が、二つ。
「これで、てめえが証人だ。耳のでけえ女」
◇
取引が終わると、ガラは、岩の上に戻った。
喉を、大きく鳴らす。
市場じゅうのゴブリンが、手を止めて、顔を上げた。
ズズが、体を震わせながら訳した。
「……いちばを、ひらく、って。したから、くるやつは、ぜんぶ、ここに、こい。もう、うえで、ひとの、まえに、たつな。……って」
若いゴブリンたちが、通路の四方へ走っていった。
使いだ。下へ、横へ、ガラの言葉を運びに行く。
チチッ、と大ネズミが鳴いた。
水たまりの縁で、スライムたちが、ぷちゅぷちゅと鳴き交わす。
市場の声が、少しずつ、大きくなっていった。
喉の声と、泡の音と、ネズミの声が、重なって、ふくらんでいく。
私は、録音機の音量を下げた。
針が、振り切れそうだった。
膝の上で、ズズが、容器の縁から身を乗り出していた。
水たまりのスライムたちの歌に合わせて、小さく泡を鳴らしている。
「……ここ、うるさいけど、すきだぞ」
「どうしてですか」
「わかんない。……なんか、あったかい」
スライムに、体温は無い。
それでも、ズズはそう言った。私は、その一言を、ノートの端に書いておいた。
◇
地上に戻ったのは、夜の九時すぎだった。
支部長は、管理棟に着くなり、本部に電話をかけた。
ハヤテさんのスマホには、帰り道のあいだに、探索者仲間からのメッセージが何十件もたまっていた。
通り道で狩れないなら、どこで稼げばいい。魔物の味方をするのか。いくつかは、読み上げずに、ハヤテさんが黙って閉じた。
霧島さんは、私の手首の紐を見て、何か言いかけて、やめた。
支部長の電話が終わる前に、ハヤテさんのスマホが鳴った。
画面を見て、ハヤテさんの顔から、表情が消えた。
「……先生。これ」
ニュースの速報だった。
――アマツ資源、二日後に緊急会見。多摩迷宮第十二層における当社事業への「不当な制限」について。




