第23話 地層は、上を向いている
四十一日目の朝、第十層の中継所で目を覚ますと、ハヤテさんはもう湯を沸かしていた。
昨夜は、ここから配信をした。
協会の回線は細くて、画面は何度も止まった。それでも、同接は三万を超えた。
"ゴブリンの市場、マジであったのか"
"のど飴で話を買う先生"
"おばちゃんの飴、ゴブリンの頭に届いてて草"
おばちゃんに、教えてあげたいと思った。
たぶん、拡声器で言いふらされる。
私は、ノートの、両手がこぶしになる絵を映して、八で繰り上がる話をした。
コメント欄は、しばらく、指を折る人たちで埋まった。
"片手四本で数えてみたけど、八で桁上がり、慣れると楽かも"
"名無しの音声学徒: 数詞の音、取れたら、桁の境目で形が変わるか見たいです"
音声学徒さんは、私と同じところを見ている。
◇
ガラは、市場の入口で待っていた。
首の紐の束が、歩くたびに、かさかさと鳴る。
「ついて来い。刃は、置いてきたな」
「置いてきた」
霧島さんの腰には、今日は何も下がっていない。
刀は、中継所の小屋に置いてきた。支部長の条件より、一歩先だ。
昨日の帰り道に、理由を聞いた。
市場の頭が、刃を置けと言った。なら、持っていかない。霧島さんの答えは、それだけだった。
ガラは、市場の脇の、細い横道に入った。
光る苔がまばらになり、ハヤテさんがライトをつけた。
ガラは、ときどき振り返って、ハヤテさんの盾を見た。
喉が、短く鳴る。ズズが訳し、私が言葉にする。
「……おい、かてえ盾。四つ目の層で、なんで、どかなかった」
「え、俺っすか。……後ろに、仲間がいたんで。俺がどいたら、仲間の前に、あんたらが出ちゃうじゃないっすか」
ガラは、しばらく黙って歩いた。
「……そうか。オレ様も、後ろに、群れがいた」
それだけ言って、また前を向いた。
ハヤテさんは、なぜか、少し照れたような顔をしていた。
しばらく歩くと、通路の壁が、急に荒くなった。
「ここは、誰も使わねえ道だ。古い。……一番古い」
ガラが、壁を四本の指で叩いた。
「見ろ」
◇
壁一面に、えぐれた跡があった。
一つ一つが、私の腕くらいの長さだ。
下の端が深く、上へ行くほど浅くなって、すっと消えている。それが、何百も、鱗のように重なっていた。
全部、同じ向きだった。
下から、上へ。
「……掘り跡、っすか?」
「たぶん」
霧島さんが、ライトを壁に近づけた。
えぐれの縁を、指でなぞる。長いあいだ、黙っていた。
「第三層の旧坑道を覚えているか、鳴瀬さん」
「はい。協会が掘った、作業用の道です」
「あれは、人が上から掘り下げた道だ。つるはしの跡は、上が深くて、下へ向かって細る。……掘る者は、自分の足元へ向かって、道具を振り下ろすからだ」
霧島さんは、壁の跡を、下から上へなぞった。
「これは、逆だ」
霧島さんは、壁から手を離した。
「協会は、十年で、何百本も道を測量した。幅も、長さも、傾きも、全部、記録にある。……掘り跡の向きを書いた記録は、一枚も無い」
「誰も、掘られた道だと、思っていなかったからです」
「……そうだ」
ハヤテさんのライトが、天井へ向いた。
天井の岩には、何本もの筋が走っていた。
岩の層だ。灰色と、茶色と、黒い層が、縞になって重なっている。
その縞が、通路の両端で、上へめくれていた。
下から何かが押し通って、岩の層ごと持ち上げたみたいに。
「地層が、上を、向いてる……」
ハヤテさんが、ぽかんと口を開けた。
私も、同じ顔をしていたと思う。
録音機のスイッチを入れたまま、私は何も言えなかった。
言葉を記録しに来て、言葉より先に、岩に答えを見せられている。
◇
十年前、世界中に、ダンジョンが現れた。
ニュースも、教科書も、協会も、そう言ってきた。
現れた。開いた。出現した。どれも、上から見た言葉だ。
でも、この壁は、別のことを言っている。
この道は、下から上へ掘られた。
何かが、底から、地上に向かって、道を作った。
「ズズ」
私は、容器の蓋を開けた。
「歌の始まりは、一番下だと、言っていましたね。底から、上ってきた、と」
「うん。ばばは、いつも、そこから、うたった」
「その続きを、少しだけ、聞かせてもらえますか。覚えているところまでで、いいです」
ズズは、壁の跡を見上げて、しばらく揺れていた。
それから、小さく泡を鳴らした。
ぷちゅ、ちゅい。ぷ、ぷ、ちゅい。
高さは、下から始まって、少しずつ、上がっていく。
「……そこから、のぼった。みちを、のぼった。……みちは、さきに、あった」
道は、先にあった。
スライムたちが上ってきたとき、道は、もうあった。
誰かが、先に掘っていた。
六日前、長老の巣で見た、糸の地図を思い出す。
三十段目の下にも、糸は、闇の中へ続いていた。協会の断面図が白いまま終わるところから、さらに下へ。
道は、そこから始まっている。
始まりの側から見れば、地上は、行き止まりだ。
「先生……じゃあ、ダンジョンって、出てきたんじゃなくて」
「掘られてきた、のかもしれません。……まだ、仮説です」
「誰が、掘ったんですか」
私が聞くと、ズズは黙った。
代わりに、ガラが、喉を低く鳴らした。
「それは、言わねえ。オレ様の話は、まだ一つ目しか売ってねえ」
「……飴が、足りませんか」
「飴の話じゃねえ」
ガラは、私の顔を、じっと見た。
「てめえは、目がある。壁を見て、向きに気づいた。上の人間で、ここに来たやつは、何人もいた。誰も、壁なんか見なかった」
「島の道も、そうでした」
私は、壁の跡に、そっと手を当てた。
「古い道は、向きを見れば、誰がどこから来たか分かります。言葉も、同じです。……どちらから来たかは、形に残るんです」
ガラは、何も言わなかった。
ただ、指を一本、折った。
◇
市場へ戻ると、ガラは岩の上に座って、首の紐の束を外した。
平たい石の上に、一本ずつ並べる。
灰色の、細い紐だった。どれも、結び目がいくつも作られていて、結び目の大きさと間の空き方が、一本ずつ違う。
ところどころに、赤く染めた糸で結んだ結び目が、混じっていた。
私は、数えた。十三本。
十二本は、端がきつく結ばれて、閉じていた。
最後の一本だけ、端がほどけたままで、結び目が、まだ一つも無い。
「オレ様の一族は、十年、これを結んできた」
ガラは、四本の指で、最後の一本を撫でた。
「その一本は、今朝、結び始めた。……これが何を数えた紐か、てめえが読めたら、二つ目の話をしてやる」




