第22話 ゴブリンの市場
四十日目。朝の七時に管理棟を出て、第八層に着いたのは十時すぎだった。
長老の巣の脇を抜けるとき、糸が一本、短く鳴った。
ズズが泡で返す。
「いってこい、だって。……ガラは、くちが、わるいって」
「長老も、ガラを知っているんですね」
「みんな、しってる。いちばの、かおだぞ」
第九層、第十層。
ハヤテさんは、盾のほかに、三人分の水と寝袋を背負っていた。
「荷物持ちなんで。登録上は」
「……根に持っていますね」
「持ってないっす。荷物は持ってるっすけど」
第十層の階段の脇にも、協会の中継所がある。第八層のものより、ひと回り小さい小屋だ。そこに寝袋と水を置いて、さらに下りる。
第十一層への階段の下に、あの若いゴブリンが立っていた。
五つ眠るあいだ、ずっと待っていたのかもしれない。私たちを見ると、また両手を開いて見せた。
◇
市場は、音から先に聞こえてきた。
喉を鳴らす声。チチッ、と速い大ネズミの声。どこかで、泡のはじける音。
それが、何十、何百と重なって、通路の先からあふれてくる。
角を曲がると、天井の高い空洞が開けた。
壁一面に、光る苔が生えている。その青白い明かりの下に、平たい石が並んでいた。
石の上に、干した茸、水の入った袋、白い骨、苔の塊。ゴブリンが、指を折りながら、何かと何かを取り替えている。
「……マジっすか」
ハヤテさんが、盾を背中に回したまま、立ち尽くした。
大ネズミが、茸の山の前で、鼻を動かしている。
水たまりの縁には、スライムが何匹も並んで、ぷちゅぷちゅと鳴いていた。
ズズが、容器の中で伸び上がった。
「……したの、スライムだ。うたが、ちょっと、ちがう」
逃げてきた魔物たちが、ここで、暮らしていた。
協会の地図では、第十一層は、ただの通り道だ。
私は、録音機を胸の前に掲げた。
一歩進むごとに、ヘッドホンの中の声が入れ替わる。
茸の山の前で、二匹のゴブリンが言い合っていた。
片方が、四本の指を全部折り、もう片方の手でも四本を折った。両手が、握りこぶしになる。
そこで、相手のゴブリンが、首から下げた紐に、ひと回り大きな結び目を一つ作った。
「先生、あれ、何してるんすか」
「数えているんだと思います。両手が握りこぶしになったら、紐に大きめの結び目を一つ。……八で、一つ繰り上がる」
「八っすか? 十じゃなくて?」
「指が、片手に四本ですから」
人間が十で繰り上がるのは、指が十本だからだ、という説がある。
ゴブリンの指は八本だ。だから、八。
ノートに書く手が、少し速くなった。
霧島さんが、横から、ちらりとそれを見た。
「……早口になっているぞ、鳴瀬さん」
「すみません。でも、数詞は、言葉のいちばん古い層に残るんです。島の言葉でも、そうでした」
◇
ガラは、空洞のいちばん奥の、高い岩の上に座っていた。
背は、ほかのゴブリンと変わらない。ただ、肩が広い。
鼻の上を、古い傷が横切っている。片方の耳の端が、欠けていた。首に、紐の束を何重にも巻いている。
ガラは、私たちを見下ろして、喉を鳴らした。
ズズが聞き、泡で返し、私が乱暴な言葉にする。
「最初に言っとく。オレ様の市場で、刃を抜くな。抜いたら、てめえら全員、上へ叩き返す」
「抜かない」
霧島さんが、短く答えた。
私が訳す前に、霧島さんは、刀を鞘ごと腰から外して、足元に置いていた。
ガラの目が、それを見た。
それから、ハヤテさんの盾に移った。
「……その盾、知ってるぞ。かてえ盾だ。四つ目の層で、オレ様の群れが、二度叩いた」
「えっ」
「あれは、通せ、って意味だ。てめえは、どかなかった。だが、斬りもしなかった」
ハヤテさんが、口を開けたまま、私を見た。
「……あれ、ノックだったんすか」
「そうみたいです」
「うおお……。俺、三十六日、ずっと気にしてたんすよ……」
ガラが、指を一本立てた。
ズズが、少し縮んでから訳す。
「市場で、ただでもらうやつはいねえ。話を聞きてえなら、何を出す」
私は、リュックの中を探した。
録音機。ノート。接触マイク。それから、五日前に、売店のおばちゃんが押しつけてくれた袋。
のど飴を一つ、岩の上に置いた。
ガラは、それを指でつまんで、匂いを嗅いだ。
舐めた。目が、少しだけ大きくなった。
「……なんだ、これは」
「甘いもの、です。喉に、いいです」
「……悪くねえ」
ガラは、飴を口に入れたまま、指を一本折った。
「一つもらった。だから、一つ話す」
ガラの一つ目の話は、私を呼んだわけだった。
「第八層の、糸のじじいが、言ってた。上に、耳のでけえ女がいる。鳴き声じゃなく、言葉として聞く女だ、ってな」
「長老が」
「十年、上の人間は、オレ様たちの声を、鳴き声だと思ってた。吠えてる、威嚇してる、ってな。……違うって言う人間が、一人、出た」
ガラは、四本の指で、私の耳を指した。
「だから、耳のでけえ女だ。耳の形じゃねえ。……聞く耳の話だ」
ハヤテさんが、なぜか誇らしそうに胸を張った。
ズズも、容器の中で、伸び上がった。
◇
そのとき、床が、震えた。
ずうん、と。
遠く、下の方から。足の裏で聞く音だった。
市場が、止まった。
喉の声も、ネズミの声も、泡の音も、全部が一度に途切れた。
何百もの魔物が、同じ方を向いて、黙っている。
ずうん。
もう一度鳴って、それきりだった。
少しずつ、市場に声が戻ってくる。
水たまりの縁で、下から来たスライムたちが、また歌い始めた。
ズズが、体を傾けて、それを聞いている。節は、ズズの知っている歌と、少しだけ違うらしい。
声が戻ると、市場は、さっきよりも騒がしくなった。
黙っていたぶんを、取り返すみたいに。
ガラが、岩の上に唾を吐いた。
「――石の音だ」
「石の、音」
「人間が、石を掘る音だ。東の、下から来る。……あの音は、気に食わねえ」
容器の中で、ズズが、小さく震えていた。
「……おれも、あのおと、きらいだぞ。ずっと、まえから」
霧島さんの横顔が、硬くなった。
第十二層の東の端。三日前に、支部の掲示板で見た地名だ。
霧島さんは、私にだけ聞こえる声で言った。
「アマツの掘削場は、去年の秋にできた。この春から、大きな機械を入れて、下へ掘り進めている」
「下へ、どこまで」
「……公表されていない」
私は、ガラに向き直った。
「なぜ、嫌いなんですか」
ガラは、首の紐の束に、指をかけた。
それから、私の顔を見た。
「それは、二つ目の話だ。……てめえが、数を聞ける耳か、先に見る」
ガラは、岩から飛び降りた。
私の胸までしかない背で、私を見上げる。
「明日、来い。てめえらの立ってる、この道が、どっちから掘られたか、見せてやる」




