第20話 糸で編んだ地図
三十五日目。五月の連休のさなかで、管理棟の前の広場は、見学の家族連れでにぎわっていた。
第一層は、まだ閉鎖されたままだ。
それでも、入口の柵の前で写真を撮っていく人は多い。売店のおばちゃんは、柵の外に机を出して、飴と絵葉書を売っていた。
「お姉ちゃん! また下りるのかい」
「はい。第八層まで」
「あんた、ほんとに偉くなったねえ。ほら、これ、持っていきな」
おばちゃんは、私の手に、のど飴の袋を押しつけた。
「声を使う仕事なんだろ。喉は大事にしな」
◇
長老の巣は、前に来たときと、様子が違っていた。
通路の奥に、広い空洞があった。
その空洞いっぱいに、糸が張り巡らされている。
ただの巣ではなかった。
糸は、何十もの段に分かれていた。一段ごとに、細い糸が平らに編まれて、床のようになっている。段と段のあいだを、太い糸が縦に貫いていた。
「……これ、もしかして」
「層だ」
霧島さんが、低く言った。
「一番上の段が、第一層。下へ、順番に。……多摩迷宮の、断面図だ」
支部の壁に貼ってある、第一層から第三十層の断面図。
それを、蜘蛛たちが、糸で編んでいた。
上の段は小さく、下へ行くほど広い。
三十段目の下にも、まだ、糸が続いていた。闇の中へ、どこまでも。
「すげえ……」
犬飼さんが、口を開けたまま見上げていた。
長老は、地図の真ん中の、太い縦糸にとまっていた。
私たちを見ると、脚で、その糸を一度だけ弾いた。
「いつつの、ひで、あんだ。……いとの、ちずじゃ」
◇
長老の話は、短かった。
「なる、いとと、ならぬ、いと。……さわって、みよ」
私は、接触マイクを出した。
一番上の段の糸に、そっと当てる。
細く、澄んだ音が返ってきた。
二段目、三段目。
どの段の糸も、触れるたびに、小さく鳴った。
十段目。十五段目。
鳴る。
十八段目。十九段目。
鳴る。
二十段目の糸に、マイクを当てた。
「……」
何も、返ってこなかった。
二十一段目。二十二段目。
その下の、どの段も。
ヘッドホンの中は、ずっと、無音のままだった。
「もだは、いま、そこに、おる」
長老の糸が、二十段目を指すように震えた。
ズズが訳すより先に、私には分かった。
「第二十層、です」
霧島さんが、地図の二十段目を、長いこと見ていた。
「去年、上級の連中が報告してきたのは、第二十八層より下だった」
「それが、今は、二十層」
口に出すと、背中が冷たくなった。
一年足らずで、八層。しかも、長老の糸が黙っていく速さは、このところ、もっと速くなっているように聞こえた。
「長老。もだは、どれくらいの速さで、上がってきますか」
ズズが伝える。
長老は、しばらく黙ってから、弾いた。
「わしは、かずを、かぞえぬ。……かぞえるのは、ほかの、ものじゃ」
「ほかの、もの」
「みずから、かぞえる、ものらが、おる。……やがて、くる」
謎めいた言い方だった。
ズズに聞き直してもらっても、長老は、それ以上は弾かなかった。
急くな、ということなのだろう。
帰りぎわ、ズズが、容器の縁から地図を見上げていた。
三十段目の、さらに下。闇の中へ続く糸を、じっと見ている。
「ズズ?」
「……ばばの、うたの、はじまり。あそこだ」
ズズの体が、少しだけ灰色に寄った。
「いちばん、した。そこから、のぼってきた、って。うたの、はじめに、ある」
「歌の始まりを、覚えているんですか」
「はじまりは、おぼえてる。はじまりだけ、なんかいも、きいたから」
歌の始まりは、底。
そして、終わりは、もだ。
語り部の歌は、群れが底から上がってきた道のりを、順番に歌っているのかもしれない。
四つめは、こわいとこ。ゴブリンは、いばる。あれは、その途中の一節なのだ。
私は、ノートの余白に、小さく書いた。
歌=道のり? 始まり=底、終わり=もだ。
◇
中継所に戻ったのは、夕方だった。
霧島さんは、本部へ連絡を入れに、階段の上の通信機のところへ行っていた。
小屋の中には、私と犬飼さんと、容器の中のズズだけだった。
私は、地図の段と、鳴らなかった糸の数を、ノートに書き写していた。
二十段目から下。数えると、手が震えた。
「先生」
犬飼さんが、寝袋の上に座ったまま、ぼそりと言った。
「怖いっすね。今日のは」
「……はい」
「俺、第三層のときは、怖いより先に、体が動いたんすよ。でも今日のは、盾じゃ、どうにもならない感じがして」
犬飼さんは、自分の手を見下ろしていた。
「だから、なんつーか。先生の横にいるくらいしか、できないっすけど」
「十分です」
考えるより先に、言葉が出た。
「犬飼さんが、横にいてくれるので、私は、ノートを書いていられます」
犬飼さんは、しばらく黙ってから、頭をかいた。
「あの、先生。ついでに、一個だけ、いいっすか」
「はい」
「その、犬飼さん、っての。……そろそろ、やめてもらえないっすかね。先生、ズズのことは名前で呼ぶじゃないっすか。霧島さんは、まあ、霧島さんって感じなんで別枠として。俺だけ、なんか、遠いっす」
言われてみれば、そうだった。
ズズは「でかいの」と呼び、霧島さんは「犬飼」と呼ぶ。四日目に先生と呼ばれてから、私だけが、ずっと「犬飼さん」のままだった。
少し考えて、私は言った。
「……ハヤテさん」
犬飼さんが――ハヤテさんが、固まった。
三秒くらい、固まっていた。
それから、寝袋の上で、両手を突き上げた。
「うおおおっ!! 今の、録音しとけばよかったっす!!」
「録っていません」
「先生ー! もう一回、お願いしまっす!!」
「……論文に書けないので、やめてください」
容器の中で、ズズが、ぷちゅちゅ、と笑った。
「でかいの、うるさいぞ」
◇
そのとき、小屋の扉が、外から叩かれた。
霧島さんではない。
霧島さんなら、叩かずに開ける。
ハヤテさんが、一瞬で盾を取って、扉の前に立った。
私はヘッドホンを首にかけ、録音機のスイッチを入れた。
扉の向こうから、低い声がした。
喉を鳴らすような、ごろごろとした声。コウモリ探知機を通さなくても、はっきり聞こえる。
ゴブリンの声だ。
ズズが、容器の縁まで上がってきた。
四日目に、ハヤテさんの配信のゴブリンを訳したときと同じように、体を傾けて聞いている。
「……いちばの、いちばん、えらいやつの、つかいだって」
「何と、言っていますか」
ズズが泡で訳し、私が言葉にする。
ゴブリンの訳は、乱暴にする。それも、私が決めたことだ。
「――市場の、若頭の使いだ」
扉の向こうで、もう一度、ごろごろと喉が鳴った。
「耳のでけえ女に、用がある」
↓第2章の番外編「取れてます」(小野寺視点。名無しの音声学徒が名乗るまでの三日間)
https://note.com/wise_turtle184/n/nf509efd92875?app_launch=false




