第19話 久我さん
三十日目、探索者協会の本部は、都心のビルの十二階にあった。
多摩支部の会議室の、三倍はある部屋だった。
正面の長机に、本部の理事が五人。その横に、記録係。
片側に、ネオリンガの技術者が二人と、久我先生。
反対側に、霧島さんと、私と、犬飼さん。膝の上には、ズズの容器。
壁際の傍聴席には、鉄風のリーダーの姿もあった。
腕には、まだ、糸の跡がうっすら残っている。
「これより、翻訳AIの試験採用について、聞き取りを始めます」
理事の一人が、書類をめくった。
久我先生は、私のほうを見なかった。
十九日目の実演のときと、同じだった。違うのは、先生の前に置かれた水のコップが、もう半分空になっていることだった。
◇
最初に話したのは、霧島さんだった。
「調査班の記録を、三つ、出します」
大きな画面に、音と字幕が並ぶ。
一つめは、九日目の第三層。ズズの「みち」。
AIの訳は【威嚇(強)】。そのあと百匹を超える魔物が、人の横を通り過ぎた記録映像。
二つめは、二十五日目の第八層。蜘蛛たちが道を教える糸の音。
AIの訳は【威嚇】。調査班の訳は「みち、こっち、とおれ」。そのあと、剣が糸を断ち、巣が警告に変わった。
三つめは、同じ日の、私の声。
「動かないでください、糸は引っ張るほど締まります。――調査員がそう叫んだ声を、AIは【威嚇】と訳しています」
理事の何人かが、顔を見合わせた。
傍聴席の鉄風のリーダーが、うつむいた。
「人間の声を、魔物の声と区別できていない、ということですか」
「区別する必要が、無かったのでしょう」
霧島さんは、淡々と言った。
「戦闘の映像だけで学んだのなら、聞こえた声は全部、敵の声です」
理事の一人が、今度は私を見た。
「では、調査班の訳が正しいという根拠は」
「正しい、とは言いません」
私は、膝の上の容器に手を置いたまま答えた。
「間違っていたら、誰でも直せるように、録音と書き起こしを全部、日付つきで公開しています。どの語を、何回、どの場面で聞いたか。分からなかった語は、分からないと書いてあります」
「……分からない、と」
「はい。辞書の三分の一くらいは、まだ、印が付いています」
◇
ネオリンガの技術者が、立ち上がった。
十九日目に、私の質問に答えた人だった。
顔色が、あの日よりずっと悪い。
「……学習に使ったのは、戦闘の場面の音声だけです。それは、事実です」
理事の一人が、身を乗り出した。
「では、威嚇という分類は、どこから」
「基礎になる高さの分類は、久我先生から、いただきました。先生の研究室で、すでに確立されている体系だと」
会議室の空気が、久我先生のほうへ、ゆっくりと傾いた。
先生は、眼鏡を外して、レンズを拭き始めた。
話を終わらせるときの、いつもの癖だ。
「研究室の資料を、研究室の長が使って、何が悪いんですか。学問というのはね、個人の持ち物ではないんですよ」
「その資料に、威嚇という語は、書いてありましたか」
私は、そう聞いていた。
先生が、初めて、私のほうを向いた。
「……君ねえ」
「書いていなかったはずです。あの表の最後の頁に、私が書いたのは、一行だけです」
五年前の夜を、覚えている。
見学路で録った声を、高さで分けて、表にした。分けることはできた。けれど、意味は一つも分からなかった。
だから、最後に、一行だけ書いた。
「『この並びの意味は、まだ分からない。録り続けること』」
小野寺さんの公開した画像に、その頁も入っていた。
理事の手元の資料にも、同じ画像が、印刷されて挟まっているはずだ。
「意味の分からない表に、意味を付けたのは、誰ですか」
先生は、答えなかった。
拭き終えた眼鏡を、かけ直さないまま、手の中で持っていた。
◇
聞き取りは、一時間で終わった。
理事の結論は、短かった。
《リンガ・ビースト》の試験採用は中止。配った端末は回収し、探索者には使わないよう通知する。
魔物の声の翻訳は、当面、多摩支部の魔物言語調査班の記録を基準とする。
「うおっしゃああっ……!」
犬飼さんが、机の下で、拳を握っていた。
声は、半分くらい、飲み込んでいた。霧島さんの目が、横から刺さっていたからだ。
会議室を出ようとしたとき、廊下の先に、久我先生の背中が見えた。
一人だった。
ネオリンガの人たちは、もう、別の扉から出ていったらしい。
私は、その背中に、声をかけた。
「久我さん」
久我さんの足が、止まった。
振り向いた顔は、驚いていた。
学部のゼミに入ってから、八年。私が先生を、先生以外の呼び方で呼んだのは、初めてだった。
「……鳴瀬君」
「ノートを、返してください。研究室の資料ではなく、私の、院生のころのメモです」
久我さんは、しばらく、何も言わなかった。
それから、ふっと笑った。
照れたときも、困ったときも、この人は、笑ってごまかす。
「身の程、というものがね……」
その先は、続かなかった。
久我さんは、もう一度だけ口を開きかけて、閉じて、背中を向けた。
エレベーターの扉が、静かに閉まった。
犬飼さんが、私の横で、小さく言った。
「先生。今の、久我先生のこと、先生って呼ばなかったの、わざとっすよね」
「はい」
「かっけえっす」
容器の中で、ズズが、ぷちゅ、と鳴いた。
「ことは。いまの、やつ、もう、こわくないのか」
「……少しだけ、こわいです」
「そうか。おれも、すこしだけ、こわかったぞ」
◇
その夕方、小野寺さんから、短いメッセージが届いた。
『大学に、調査委員会ができました。わたしも、明日、話をします。ノートは、委員会が預かるそうです』
私は、返事を打った。
ありがとうございます、と書いて、消して、もう一度書いた。
府中の部屋で、辞書の頁を開く。
この一か月で、スライムの語と、ゴブリンの語と、蜘蛛の語が並んだ。
百二十語。
ひと月前、ノートを置いて研究室を出たときには、一語も無かった。
スマホが、もう一度鳴った。霧島さんからだ。
『第八層の無人機が、今日の昼、巣の唸りを拾った。訳してほしい』
添付された音声を、ズズと一緒に聞いた。
長老の、低い弾き方だった。
ズズが、一語ずつ、確かめるように訳した。
「いとの、ちずを、あむ。……いつつの、ひが、かかる。できたら、こい。……もだが、どこまで、きたか、みせる」




