第17話 威嚇ではありません
二十五日目の朝、私たちは、鉄風より二時間早く、第八層に下りた。
止めるためではない。
霧島さんの言葉を借りれば、「比べるため」だ。
止める手は、もう試していた。
二十三日目に、私は鉄風に、短いメッセージを送った。第八層の蜘蛛は、今は道を教えようとしているかもしれない。糸だけは、断たないでほしい、と。
返事は、配信の告知の追記として来た。
『スライムの人から忠告来ました(笑)。俺らはデータを信じます!』
「調査班の許可は第十層まで。同じ層にいることは、誰にも止められない」
中継所に荷物を置くと、私たちは、そのまま巣の奥へ入った。
霧島さんは、長老のいる通路の岩の上に、スマホを立てた。
画面には、鉄風の配信の待機画面が映っている。同接は、始まる前から一万五千を超えていた。
長老には、着いてすぐに会いに行った。
ズズを通して、今日、人が四人、巣を抜けに来ることを伝えた。
「しって、おる。……みなに、いうて、ある。ひとが、きたら、みちを、おしえよ、と」
「道を、ですか」
「ひとが、まえに、たつと、とおれぬ。……おまえは、それを、ひとに、つたえた。ならば、わしらも、ひとの、まえには、たたぬ」
三日前、長老は私に、なぜ人は逃げる者の前に立つのか、と聞いた。
長老は、その問いの答えを、自分たちの決まりに変えていた。人がそうするなら、自分たちはしない、と。
◇
昼過ぎ、鉄風の配信が始まった。
四人組。剣が二人、槍が一人、後ろに弓が一人。
全員の胸に、スマホが留めてある。
『はい、鉄風でーす! 今日は第八層、大蜘蛛の巣を、翻訳AIで突破しまーす!』
リーダーの男性が、カメラに向かって手を振る。
画面の端に、AIの字幕を出す枠が付いていた。
四人は、第七層の階段を下りて、白い通路に入った。
巣の奥の、長老の糸の前で、私たちは、その画面を見ていた。
天井の糸が、震え始める。
蜘蛛たちが、一匹、また一匹と、通路の脇へ下りてくる。
脇へ、だ。
前に立つ蜘蛛は、一匹もいない。
接触マイクは、長老のそばの糸に貼ってあった。
巣はつながっているから、鉄風のいる通路の音も、少し遅れて届く。
ヘッドホンの中で、糸が鳴っている。
三つずつの組。上がって、下がって、上がる。命令の形だ。
覚えたばかりの語が、何度も繰り返されていた。
「みち。こっち。……とおれ」
ズズが、容器の中で訳した。
「みちを、おしえてるぞ。こっちが、こどもの、いない、みちだって」
画面の中で、AIの字幕が光った。
【威嚇】【威嚇】【威嚇(強)】
『うわ、めっちゃ威嚇されてる! 囲まれてる囲まれてる!』
『落ち着け、まだ距離ある! AIが強って出たやつから行くぞ!』
「だめです」
思わず、声が出ていた。
霧島さんが、もう立ち上がっていた。
「行くぞ」
◇
長老のそばの糸から接触マイクをはがして、私は走った。
ヘッドホンは首にかけたまま、耳で聞く。
前のほうで、剣が糸を断つ音がした。
一本、二本。
その瞬間、通路を満たしていた唸りが変わった。
道を教える組が、ぴたりと止む。
代わりに、短く、鋭い組が、通路の奥から手前へ、波のように走ってくる。
下がって、下がって、上がる。
危ないほうから出る、警告の並び。
「ことは! みんな、おこってない! こわがってるぞ!」
角を曲がった先に、鉄風がいた。
四人とも、糸に絡まっていた。
剣を振った腕に、槍の柄に、弓に、白い糸が何重にも巻きついている。もがくほど、糸が締まっていく。
天井から、蜘蛛たちが次々に糸を吐いていた。
噛みつく蜘蛛は、一匹もいない。ただ、巻いて、止めている。
「動かないでください!」
私は叫んだ。
「糸は、引っ張るほど締まります! 動かないで!」
『誰だよ!? ……スライムの、あの人!?』
「鳴瀬です! 今、蜘蛛たちは、あなたたちを止めているだけです!」
リーダーの胸のスマホが、私の声を拾って、字幕を出した。
【威嚇】
私の声まで、威嚇と訳されていた。
◇
犬飼さんが、盾を構えて、私の前に出た。
霧島さんは、刀に手をかけず、通路の真ん中に立った。
私は、握ってきた接触マイクを、近くの太い糸に貼り直した。
「ズズ。長老に、伝えてください。この人たちは、もう斬りません、と」
「わかった!」
ズズが、容器の縁から大きく体を伸ばして、鳴いた。
ぷちゅ、ぷ、ちゅい。それから、蜘蛛の語を、真似るように、短い泡を三つ。
十秒。
二十秒。
通路の奥から、一本、低い糸が鳴った。
長老だ。
走ってきた警告の波が、その一音で、止まった。
糸を吐いていた蜘蛛たちが、一匹ずつ、天井へ戻っていく。
「……とめた、だけじゃ。かんでは、おらぬ」
ズズの訳を、私は、鉄風の四人に向かって、そのまま言った。
「止めただけだ、噛んではいない、と言っています」
それから、もう一つ。
「さっきの声は、威嚇ではありません。子どものいない道を、教えていました」
リーダーの男性が、糸の中で、胸のスマホを見下ろした。
字幕の枠には、まだ【威嚇(強)】の文字が残っていた。
◇
糸は、蜘蛛たちが、脚で一本ずつ外していった。
鉄風の四人に、怪我はなかった。腕と脚に、糸の跡が赤く残っただけだ。
霧島さんは、四人を前に、短く言った。
「協会の調査課だ。第八層で糸を断つのは、巣全体に刃を向けるのと同じだ。報告書を書いてもらう」
リーダーは、うなだれたまま、頷いた。
それから、私のほうを見た。
「……あの。俺ら、AIが威嚇って出たから、先にやらなきゃって」
「分かります」
責める言葉は、浮かばなかった。
私も、同じ画面を見ていたら、同じことをしたかもしれない。
「訳が、間違っていただけです」
鉄風の配信は、まだ回っていた。
同接の数字は、三万を超えていた。
"蜘蛛、噛んでないじゃん"
"道を教えてたのに斬ったのか"
"スライムの人の声まで威嚇判定で草も生えない"
"《リンガ・ビースト》、これアウトだろ"
霧島さんは、中継所に戻ると、すぐに本部へ電話をかけた。
声を荒げることもなく、事実だけを、三分で話した。蜘蛛の声、AIの訳、糸を断った時刻、怪我人なし。
電話を切ってから、霧島さんは一言だけ言った。
「比べる材料は、揃った」
帰りの階段で、私のスマホが一度だけ震えた。
論文の公開を知らせる、学会の通知だった。
著者、久我征一郎。題名は「魔物音声の高さ体系について――翻訳AI開発の基礎として」。
歩きながら、私は添付の図を開いた。
図1。スライムの声を、音の高さで分けた表。
その行の並びも、高さの区切り方も、欄の外に書いた小さな注まで、私は知っていた。
五年前、私が、青い表紙のノートに書いた表だった。




