第16話 逃げてきた者たち
なぜ、人は、逃げる者の前に立つ。
長老の問いに、私は、すぐには答えられなかった。
答えを知らなかったからではない。知っている答えが、どれも、言い訳に聞こえたからだ。
霧島さんも、犬飼さんも、黙っていた。
十年間、人がしてきたことを、一言で言える人は、ここにはいない。
「……知らなかったから、だと思います」
やっと、それだけを言った。
ズズが、泡で伝える。
「人は、魔物が人を襲いに来ると思っていました。十年前から、ずっと。だから、上がってくる魔物の前に立って、止めようとしました」
「とめる」
「人の町を、守るために」
長老の糸が、短く、二度鳴った。
問いの並びではない。蜘蛛の語で、私がまだ知らない組だった。
ズズが、しばらく考えてから、訳した。
「……ちがう、と、いってる」
長老は、もう一度、ゆっくりと弾いた。
今度は、一組ずつ、私が書き取れる速さで。
「わしらは、おそいに、きたのでは、ない」
ズズの訳を、私は口に出した。
声が、自分のものではないみたいに、遠く聞こえた。
「にげて、きたのじゃ。……もだから」
◇
通路が、静まり返っていた。
天井の蜘蛛たちも、脚を止めている。
犬飼さんが、盾を下ろしかけて、また持ち上げて、結局、地面に立てた。
「じゅうねんまえ、そこの、ものたちは、うえへ、のぼりはじめた。もだの、こない、ところへ。……うえへ、うえへ。いちばん、うえに、ひとが、おった」
「ダンジョンが現れたのは、十年前です」
「そうか。……ひとから、みれば、そうなのじゃろう」
長老は、少しだけ間を置いた。
「にげる、ものの、まえに、たたれると、とおれない。とおれなければ、うしろから、もだが、くる。……だから、かむ。かんで、とおろうと、する」
霧島さんが、目を閉じた。
私は、長老の言葉を、一語ずつノートに書いた。
書きながら、九日目の第三層を思い出していた。
出口を塞がれた魔物たちが、詰まって、押し合って、人の柵へ向かっていったこと。
旧坑道の鉄柵が開いた瞬間、どの魔物も、人の横を、ただ通り過ぎていったこと。
道が開いてからは、魔物は一匹も、人を襲わなかった。
道が、あったからだ。
「ことは」
容器の中から、ズズが言った。
「おれの、むれも、そうだぞ。いちばん、うえの、そうで、ずっと、にげる、みちを、さがしてた。ひとが、いっぱい、いて、こわかった。でも、したは、もっと、こわかった」
三日目の夜、ズズは「下から来る」と言った。
あれは、最初から、そういう意味だったのだ。
私たちは、ずっと、聞いていたのに。
◇
霧島さんが、目を開けた。
「鳴瀬さん。今の話、配信に乗っているか」
「はい。記録配信は、ずっと回しています」
「なら、あなたの口で、言ってくれ。協会の人間が言うより、そのほうがいい」
私は、カメラに向き直った。
同接の数字は、いつの間にか、四万を超えていた。
コメントの流れが速すぎて、読めない。
「今、第八層の長老から、聞いたことを、そのまま訳します」
一度、息を吸った。
「魔物は、人を襲うために、上がってきたのではありません。下にある『もだ』――声と体を消す静けさから、逃げてきました。人が前に立つと、通れなくなる。通れないと、後ろから、もだが来る。だから、噛んで、通ろうとする。……長老は、そう言っています」
"は?"
"マジか"
"第三層の件、そういうことだったのか"
流れの中に、反対の声が、少しずつ増えていく。
"いや待て、魔物の言い分をそのまま信じるのか"
"翻訳が正しい保証どこにあんの"
AI、という文字が、何度も流れていく。三日前の実演の切り抜きを、誰かが貼っていた。
"AIは威嚇って言ってたぞ"
"じゃあ十年間、俺らは何と戦ってたんだよ"
"魔石どうすんの、探索者の生活は"
コメント欄が、割れていた。
信じる、と書く人がいた。信じない、と書く人もいた。
どちらでもなく、ただ怒っている人も。
"兄が第二十層で死んだ。それも『通りたかっただけ』で済ませるのか"
その一行で、指が止まった。
済ませるつもりは、なかった。
けれど、何を言えばいいのか、分からなかった。
「……済ませる、つもりは、ありません」
やっと、それだけ言った。
「人が亡くなったことは、事実です。魔物が噛んだことも、事実です。私に分かるのは、魔物がなぜ上へ来るのか、その理由の一つだけです。それを、訳しました。誰かを責めるためではなく、次に、誰も噛まれないようにするために」
コメントは、止まらなかった。
けれど、その一行の下に、一つだけ、短い書き込みが付いた。
"元自衛官です。理由が分かれば、道は作れます。第三層で、そうなりました"
犬飼さんが、私の横から、カメラの前に顔を出した。
「あの、犬飼っす。俺も、探索者なんで、言っときます」
いつもの大声ではなかった。
「俺も、魔物、倒してきたっす。魔石売って、飯食ってきたっす。それが悪かったとか、今さら言わないっす。……でも、あの第三層で、俺の横を、ゴブリンが、何もしないで通ってったんすよ。あれ見たら、もう、前と同じには、戦えないっす」
犬飼さんは、そこで言葉に詰まって、頭をかいた。
「すんません。何が言いたいか、自分でも分かんないっす」
"ハヤテ……"
"いや、伝わった"
"現役探索者が言うと重い"
◇
地上に戻ったのは、夜の八時過ぎだった。
管理棟の前の広場で、犬飼さんが、スマホの画面を私に向けた。
さっきまで黙っていたのは、これを見ていたかららしい。
「先生。これ、さっき出た告知っす」
中級探索者のパーティー「鉄風」。
同接一万前後の、多摩では名前の知られた四人組だ。
『三日後、第八層・大蜘蛛の巣を、翻訳AI付きで突破します! 魔物の言い分より、データを信じる!』
告知の動画の最後で、リーダーの男性が、胸のスマホを叩いて笑っていた。
画面の隅に、ネオリンガの名前が、協賛として小さく入っている。
「霧島さん、これ」
「見ている」
霧島さんの声は、低かった。
「中級の許可で、第八層に入るのは止められない。AIも、本部が配った」
「でも」
「分かっている」
私は、第八層の通路を思い出していた。
壁も天井も、端から端まで、全部つながった糸。
一匹を斬れば、全部が来る。
そして、AIは、どの声も威嚇と訳す。




