第15話 もだ
二十二日目。第八層の巣に入るのは、これで三日目になる。巣は、前の二日より静かだった。
天井の蜘蛛たちは、私たちが通路に入っても、脚を動かさなかった。
待っている、というより、息を潜めている。そんな静けさだった。
「先生。なんか、今日、空気が重くないっすか」
「犬飼さんも、そう感じますか」
「俺、こういうの、だいたい外れるんすけど」
霧島さんは、胸の帯に付けた小さな計器を、ちらりと見た。
丸い盤に、針が一本。探索者なら誰でも持っている、魔素計だ。
ダンジョンの空気には、地上には無い何かが混じっている。
協会はそれを魔素と呼び、魔物の体も、魔物が死んだあとに残る魔石も、その魔素でできている、と説明している。私が知っているのは、その程度だ。
「いつもどおりだ。針は動いていない」
「よかったっす」
「……重いのは、たぶん、こっちの気持ちだ」
保存容器の中で、ズズは、ずっと縁にしがみついていた。
出発してから一度も、底へ沈んでいない。
◇
長老は、いつもの太い糸の上にいた。
私たちが前に立つと、長老は、しばらく何も弾かなかった。
八つの目が、ズズの容器を見ている。
「……きた、ぞ」
ズズが、先に鳴いた。
小さく、けれど、はっきりと。
「おれは、かたりべの、こ、だ。ばばの、うたの、さいごの、ことば。おしえろ」
私は、それを言葉にしなかった。
訳さなくても、長老には届いている。
長老の脚が、糸にかかった。
低い組が、一つ。
巣全体が、それに合わせて、かすかに震えた。
「その、ことばを、いうまえに。……こえを、ひろう、むすめ。おまえは、なぜ、いわない、ことばが、あるか、しって、おるか」
ズズが訳した。
私は、少し考えてから答えた。
「私が言葉を習った島に、決まりがありました。死んだ人の名前は、口に出すと、呼んでしまう。だから言わない」
「……ほう」
「でも、言わないのは、忘れたからではありません。忘れないために、言わないんだと、思います」
長老の糸が、一度、長く鳴った。
ズズが訳すより先に、私には分かった。
十五日目に覚えた語だ。
そうじゃ。
◇
長老は、ゆっくりと、弾き始めた。
低い二音。
ほとんど高さの動かない、ゆっくりと沈む二音。
もだ。
それから、長い話が続いた。
ズズが一組ずつ訳し、私が言葉にし、霧島さんが、黙って聞いていた。
「もだは、しずけさ。……こえが、きえる、しずけさ」
「声が、消える」
「こえと、いっしょに、いきの、もとも、きえる。わしらの、からだを、つくっておる、もとじゃ」
霧島さんが、胸の魔素計に、手を当てた。
「魔素、か」
「もだに、ふれた、ものは、まず、こえを、なくす。……つぎに、からだの、もとを、なくす。そして、やがて、きえる」
犬飼さんが、盾の縁を握り直す音がした。
声と、魔素が、消える静けさ。
触れた者は、声を失って、やがて消える。
ノートに書く手が、途中で止まった。
島のおばあさんのことを、思い出していた。
最後の話者だった人。話す相手のいない言葉は、黙っている。おばあさんは、そう言っていた。
あの島の言葉は、おばあさんと一緒に、声を失った。
けれど、魔物にとっての「もだ」は、たとえ話ではない。
本当に、声が消え、体が消える。
「それは、どこに、あるんですか」
「そこ、じゃ」
長老が弾いた組を、ズズは「した」と訳しかけて、言い直した。
「……したの、したの、いちばん、した。そこ。むかしから、そこに、あった。それが、のぼって、くる」
「上ってくる」
「わしの、いとは、したへも、はってある。……そのいとが、したから、いっぽんずつ、だまって、いく」
長老の脚が、一本の糸を指すように、持ち上がった。
通路の奥へ、ずっと下へ伸びている、細い糸。
私は、その糸に、接触マイクを当てた。
何も、聞こえなかった。
ほかの糸は、触れただけで、かすかに鳴る。
この糸だけは、弾いても、指で押しても、ヘッドホンの中に、何一つ音を返さない。
「……先生?」
「この糸、鳴りません」
犬飼さんが、息を呑むのが分かった。
"え、こわい"
"音が出ない糸ってこと?"
"マイクの故障じゃなくて?"
"ほかの糸は鳴ってたぞ、さっき"
故障ではない。
私は、隣の糸にマイクを移した。細い、澄んだ音が、すぐに返ってきた。
もう一度、さっきの糸へ戻す。
無音。
霧島さんが、その糸の先の暗がりを、長いこと見ていた。
「……去年から、深い層の報告に、妙なものが混じっている」
「妙なもの、ですか」
「魔素計の針が、ゼロに落ちる場所がある。音も無い。上級のパーティーが三組、別々に書いてきた」
霧島さんは、胸の魔素計を指で叩いた。
「全部、計器の故障として処理された。私も、そう判を押した一人だ」
その声は、いつもと同じ低さだった。
けれど、言い終えたあと、霧島さんは一度だけ、強く奥歯を噛んだように見えた。
「場所は」
「第二十八層より下だ。どれも、そこで引き返している」
長老が、短く糸を弾いた。
ズズが訳す。
「そこより、もう、うえに、きて、おる」
◇
ズズが、容器の中で、小さくなっていた。
灰色だ。
けれど、沈んではいない。縁にしがみついたまま、長老を見上げている。
「……ばばは、だから、さいごに、うたうのか。もだ、って」
「そうじゃ。……わすれるな、と。のぼって、くるものの、なを、わすれるな、と」
口に出すと、くる言葉。
ズズは十一日目の夜、そう言った。あれは、呼んでしまう、という意味だけではなかったのかもしれない。
語り部は、忘れないために、最後にだけ歌う。
ほかの者は、軽々しく口にしない。
島の決まりと、同じ形だ。
「ばばは、だいじょうぶか」
ズズの声が、震えていた。
「ばばは、うえへ、いった。もだに、ふれて、ないか」
「うえへ、いった、ものは、まだ、こえが、ある」
長老は、そう弾いてから、少し間を置いた。
「おまえの、こえも、ある。……だから、おぼえよ。かたりべの、こ」
ズズは、返事をしなかった。
ただ、容器の縁から、ゆっくりと手を離すように、体を水の中へ戻した。
灰色が、ほんの少しだけ、水色に戻っていた。
◇
長老の話は、そこで終わりではなかった。
最後に、長老は、私に向けて、一つの組を弾いた。
ゆっくりと。問いかけの並びで。
ズズが、水の中から、顔だけ出して訳した。
「ひとの、むすめ。わしからも、ききたい、ことが、ある」
「何でしょう」
長老の八つの目が、私を、それから霧島さんを、犬飼さんを、順に見た。
「なぜ、ひとは、にげる、ものの、まえに、たつ」




