第14話 AI翻訳《リンガ・ビースト》
十八日目の朝、テレビのどの局も、同じ名前を流していた。
翻訳AI。
開発は、音声認識の会社「ネオリンガ」。監修、東都大学・久我征一郎教授。
『魔物の声を、誰でも、その場で、スマホで訳せる。これが学問の成果というものですよ』
画面の中で、久我先生が、スマホを掲げてみせる。
スマホが犬の鳴き声を拾い、字幕を出す。【警戒】。スタジオから拍手が起きた。
犬は魔物ではない、と思ったけれど、口には出さなかった。
部屋には、私とズズしかいない。
「ことは。あれ、このまえの、いかくのやつか」
「はい。明日、協会で、実際に動かして見せるそうです」
「おれ、いかない」
「ズズは、留守番で大丈夫です」
「……やっぱり、いく。いかくじゃないって、いってやる」
ズズの体が、少し濃い水色になっていた。
むくれているのとも、少し違う。たぶん、怒っている。
◇
その夜の配信は、いつもより荒れた。
"AIが威嚇って言ってるんだから威嚇なんじゃないの"
"東都大の教授監修だぞ"
"いや、第三層の件見てから言え"
"個人の耳 vs 一万時間のデータ、どっちを信じるかって話"
私は、ズズと練習している途中の語を、いつもどおり一つずつ書き起こした。
反論は、しなかった。
言い返すことなら、できる。
けれど、言い返すのは学問ではない。数えて、並べて、見せるのが、私にできることだ。
「今日は、ズズが『ちょうだい』と言うときの並びを、三十回録りました。三十回とも、ズズは、私の手の上の氷を見ています」
"氷ちょうだいが威嚇だったら草"
"三十回全部、氷見てるの笑う"
"これ、AIに入れたら何て出るんだろ"
最後のコメントに、私は、答えを持っていなかった。
明日、分かる。
◇
十九日目の午後、協会の会議室は、人でいっぱいだった。
本部から来た背広の人たちが、前の列に五人。
支部長。霧島さん。私と、犬飼さんと、膝の上の容器の中のズズ。
壁際には、テレビ局のカメラまで並んでいた。
正面に、久我先生と、ネオリンガの技術者が立っている。
「では、始めましょうか」
先生は、私のほうを一度も見なかった。
技術者が、大きな画面に、協会の記録映像を映す。
第四層で、ゴブリンが喉を鳴らす。
【威嚇】
第六層の大ネズミ。チッ、チチッ。
【威嚇】【威嚇】
第一層のスライム。ぷちゅ、ぷ、ちゅい。
【威嚇(弱)】
「ご覧のとおりです。魔物の声の九割以上は、威嚇なんですよ。人を見れば襲う、という常識は、学問的にも正しかったわけです」
本部の人たちが、頷きながらメモを取っている。
一人が手を挙げた。
「処理の速さは」
「一秒以内です。探索者がスマホを胸に付けておけば、魔物が鳴いた瞬間に、危険を知らせます」
ざわめきが、感心の色に変わる。
速い。誰でも使える。たしかに、それは、私には無いものだ。
私は、手を挙げた。
「一つ、伺ってもいいですか」
「どうぞ」
答えたのは技術者だった。
先生は、腕を組んだまま、窓のほうを見ている。
「このAIは、どの録音で学んだんでしょうか」
「探索者の皆さんの、ヘルメットカメラの映像です。戦闘の場面を中心に、一万時間分」
「戦闘の場面、ですか」
「はい。魔物の声が一番多く入っているので」
やっぱり、と思った。
私は、膝の上の容器に、そっと手を置いた。
「人に追われているときの声だけを集めれば、どの声も、威嚇に聞こえると思います」
会議室が、静かになった。
「人が剣を向けたとき、魔物が出す声は、たしかに『来るな』や『逃げろ』かもしれません。でも、それは、その場面の声です。巣で子どもを呼ぶ声も、道を教える声も、その録音には、ほとんど入っていないはずです」
「君ねえ」
久我先生が、初めて私のほうを向いた。
「一万時間ですよ。君の、二週間ほどの配信の録音と比べて、どちらが学問的か。身の程というものが――」
「量の問題では、ありません。何を録ったかの問題です」
自分の声が、少しだけ震えていた。
怒っているのだと、言ってから気づいた。
「それは翻訳ではなく、作文です」
◇
霧島さんが、静かに立ち上がった。
「一つ、試させてもらう」
霧島さんが技術者に渡したのは、九日目の第三層の録音だった。
ズズが叫んだ、あの声。みち、こっちだぞ。
画面に、字幕が出る。
【威嚇(強)】
「この声のあと、魔物は百匹以上、人の横を通り過ぎた。一人も襲われていない」
「それは、ですね。威嚇によって、群れを統率して――」
「ふざけんなっす!」
犬飼さんが、椅子を蹴って立ち上がっていた。
「あの日、俺、あそこにいたっす! あれが威嚇なら、なんで誰も噛まれてないんすか!? ズズは、道を教えてたんすよ!!」
「犬飼」
霧島さんの声で、犬飼さんは拳を握ったまま、黙った。
けれど、座らなかった。
容器の中で、ズズが、ぷちゅ、ぷ、ちゅい、と鳴いた。
私にだけ聞こえる訳で、言う。
いかく、してないぞ。
画面の字幕が、その声を拾った。
【威嚇】
◇
実演のあと、廊下で、久我先生とすれ違った。
先生は足を止めずに、私の横で、声だけを落とした。
「鳴瀬君。共同研究の話は、まだ間に合いますよ。君の録音に、私の名前と、このAIが付けば、誰も文句は言わない」
「お断りします」
「強情ですねえ。若い人は」
先生は、笑いながら行ってしまった。
その背中を見送りながら、私は、十日目の電話のときと同じことを思った。
この人は、一度も、ズズの声を聞いていない。
◇
二十日目の夕方、本部の決定が、霧島さんから伝えられた。
「《リンガ・ビースト》は、試験的に採用する。中級以上の探索者に、希望者から配る」
調査課の部屋の窓の外は、もう暗くなりかけていた。
「……そうですか」
「速くて、誰でも使える。上の判断としては、筋が通っている」
霧島さんは、机の上に、もう一枚の書類を置いた。
「同時に、比べるために、調査班の仕事も続ける。許可は第十層までに広げた。同行者付きだ」
「比べる、ですか」
「どちらの訳が正しいかは、下で起きることが決める」
霧島さんの声は、いつもどおり短かった。
けれど、その言い方が、私には、少しだけ悔しそうに聞こえた。
「二日後、第八層へ下りる。長老は、次に来たときに話すと言ったな」
「はい」
「聞きに行く」
帰り道、自転車のかごの容器の中で、ズズは、ずっと黙っていた。
府中のアパートに着いて、洗面器に移したとき、ようやく、小さく鳴いた。
「ことは。ばばのうたの、さいごの、ことば。ききに、いくのか」
「はい」
ズズの体の色が、すうっと、灰色に寄っていった。
「……おれも、いく。かたりべの、こ、だから」




