第13話 語り部の子
十六日目の朝、私たちはズズの容器を抱えて、また巣の奥へ入った。
長老は、昨日と同じ太い糸の上で待っていた。
夜のあいだ、ずっとそこにいたのかもしれない。
「おはようございます。連れてきました」
私が容器の蓋を開けると、ズズは縁まで上がってきて、長老を見上げた。
薄い水色の体が、少しだけ硬くなっている。
「……なんだよ。おれに、なんのようだ」
長老の脚が、糸を弾いた。
昨日より、さらにゆっくりと。一組ずつ、ズズにだけ向けるように。
ズズは黙って聞いていた。
そして、途中から、訳すのをやめた。
「ズズ?」
「……いわない」
「何と言っていますか」
「いわないったら、いわないぞ!」
ズズは容器の底へ沈んで、平たくなった。
灰色ではない。怖がっているときの色とは違う。むくれているときの、少し濃い水色だ。
"ズズがむくれた"
"反抗期?"
"長老、何言ったんだ"
◇
仕方なく、私は接触マイクの音を、自分で聞いた。
昨日の十一語と、朝のうちに覚えた四語。
それだけで、全部は分からない。けれど、何度も繰り返される組が一つあった。
三つの高さが、ゆっくり上がっていく並び。
その前に、決まって「スライムの」という語が付く。
「霧島さん。この組、スライムの何かを指しています。何度も出てきます」
「人の名前か」
「いえ、名前なら、ズズの自称の音が入るはずです。これは、役目のような……」
そこで、長老が弾き方を変えた。
音の高さだけを、一つずつ、区切って。
ズズに聞かせるのをやめて、私に向けて弾いている。それが、分かった。
スライムの。
むれの。
うたを。
もつ。
もの。
その次に、さっきの、ゆっくり上がる並び。
そして最後に、もう一つ。
「……こ」
私は、ノートに書いた語を、指でなぞった。
「スライムの群れの、歌を持つ者の、子」
容器の底で、ズズの体が、ぴくりと動いた。
「語り部、だな」
霧島さんが、低く言った。
「群れの歴史を歌で覚えて、次へ伝える役。人間の村にも、昔はいた」
「島にも、いました」
私は、容器の中を見た。
ズズの群れの歌。
三日目と四日目に、ズズは歌の一部を教えてくれた。四つめはこわいとこ、ゴブリンはいばる。
それ以上を聞くと、ズズはいつも同じ答えをした。しらない、でも、うたで、と。
「ズズ。あなたは、群れの歌を覚える役だったんですね」
水面が、ぷく、と一つ泡を立てた。
「……おれ、おぼえてないもん」
小さな声だった。
「うた、ながいし、たいくつだし。ばばが、うたうとき、いつも、ねてた。だから、とちゅうまでしか、しらない。おれ、かたりべのこ、なのに」
ズズは、平たくなったまま、続けた。
「ばばは、さきに、うえに、いった。おれが、けがして、おいてかれたのは、おれが、ちゃんと、おぼえてなかったからだ」
「それは違います」
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
「あの夜、床が抜けたのは、ズズのせいではありません。置いていかれたのは、みんなが逃げるので精一杯だったからです」
「……ことはに、なにが、わかるんだよ」
「分かりません。だから、数えます。ズズが覚えているところまで、一緒に」
長いあいだ、ズズは何も言わなかった。
やがて、容器の縁に、体の端だけを乗せた。
"ことはさん……"
"数えます、が優しい言葉になる日が来るとは"
"ばば、って語り部のことか"
"ズズ、自分のせいだと思ってたのか"
◇
長老は、そのあいだ、一度も糸を弾かなかった。
ズズが縁に上がってから、ようやく、一本の糸が鳴った。
「かたりべの、うたは、むかし、ここを、とおった。……じゅうねんまえ、うえへ、のぼる、とき。うたいながら、わしの、いとの、したを」
ズズが、自分で訳した。
少しずつ、言葉を確かめるように。
「そのうたの、さいごの、ことばは――」
そこで、長老の脚が止まった。
糸の震えが、ふっと消える。
巣全体が、息を止めたように静かになった。
数秒して、長老は、別の組を弾いた。
「……まだ、はやい、と、いってる」
「早い、ですか」
「おまえたちは、まだ、その、ことばを、きく、みみを、もっておらん。……つぎに、きたときに、はなす、って」
私は、ノートの昨日の頁を開いた。
昨夜、ヘッドホンで聞いた、最後の組。
どの語とも合わなかった、あの並び。
話さねばならん。
長老は昨夜、そう言っていた。そして今は、まだ早いと言う。
話さねばならないことと、まだ聞かせられないこと。
その両方が、同じ一つの言葉なのだと、私は思った。
ズズの群れの歌の最後に、必ず出てくる語。
口に出すと、くる言葉。
◇
別れぎわ、長老はもう一度だけ、糸を弾いた。
今度は、ズズの訳を待たずに、私にも分かった。昨日覚えた語だけで、できていたからだ。
また。
こい。
私が頭を下げると、天井の蜘蛛たちが、一斉に脚を一本ずつ持ち上げた。
通路を戻る私たちの背中に、細い糸の音が、いつまでも、ついてきた。
◇
帰りの階段で、ズズの容器は、犬飼さんが抱えていた。
私の腕が、昨日からの書き取りで、もう上がらなかったからだ。
「なあ、ズズ。俺もさ、学校の授業、ずっと寝てたっすよ」
犬飼さんが、容器に向かって話しかけている。
ズズは返事をしない。けれど、底に沈んだままではなく、縁の近くに浮いていた。
「でも探索者の試験は、覚えたいから覚えたっす。三回落ちたけど。だから、覚えたくなったときに覚えりゃいいんすよ。歌も」
「……でかいの、三かい、おちたのか」
「そこ拾うっすか!?」
「ぷちゅちゅ」
短い、弾むような泡の音だった。
辞書には、まだ無い音だ。けれど、意味は訳さなくても分かった。
「先生、今のズズ、笑ったっすよね!?」
「笑いました。犬飼さんが、三回落ちたところで」
「先生まで!?」
前を歩く霧島さんの肩が、ほんの少しだけ揺れた気がした。
◇
夜、府中のアパートに帰り着いたのは、九時を回ってからだった。
ズズを洗面器に移すと、すぐに底へ沈んで動かなくなった。
疲れたのだろう。私も、シャワーを浴びる気力が残っていない。
スマホが鳴った。犬飼さんからだ。
『先生、これ見てください。ヤバいっす』
リンクの先は、短い動画だった。
題名は「翻訳AIデモ 話題のスライム配信を訳してみた」。
画面の左に、私の三日目の配信の録画。
右に、AIの訳が字幕で流れる。
ズズが、ぷちゅ、ぷ、ちゅい、と鳴く。
字幕が出る。
【威嚇】
ズズが、問いかけの並びで鳴く。
【威嚇】
配信の途中で、ズズが私の名前を呼んだ場面。
ぷ、ちゅ、ぷちゅ。
【威嚇(強)】
洗面器の水面が、揺れた。
いつの間にか、ズズが縁まで上がってきて、画面を見ていた。
「……おれ、いかく、してないぞ」




