第12話 長老は、ゆっくり話す
大きな蜘蛛は、通路の真ん中の太い糸に、八本の脚をかけて止まった。
また、一本の脚が糸を弾く。
低く、長く、短く。少し間を置いて、もう一度。
接触マイクの音を、ヘッドホンで聞く。
弾く強さで、音の高さが変わっている。三つで一組。高さの並びは、上がって、下がって、上がる。
「霧島さん。この並び、スライムの命令の形と同じです」
「蜘蛛も、か」
「はい。それと、この最初の組。ズズ、分かりますか」
ズズは容器の縁から半分体を出して、糸の震えにじっと耳を……耳は無いけれど、体を傾けていた。
「きけ、だ。きけ、って、いってる。むかしの、ことばだぞ」
「――聞け、と言っています」
蜘蛛は、私がそれを口にするのを待ってから、次の組を弾いた。
ゆっくりと。一組ごとに、間を空けて。
まるで、こちらが一語ずつ書き取るのを、知っているみたいに。
"え、待って、会話になってる?"
"蜘蛛が、ことはさんのペースに合わせてる"
"教える側の弾き方だ、これ"
「こえを、ひろう、むすめ。……わしは、ながく、いきておる。うえの、ものの、ことばも、すこしは、わかる」
ズズが一語ずつ訳し、私が言葉にする。
その間に、私は糸の音をノートに書き取っていく。
時刻。並び。強さ。ズズの訳。
「糸を繰る者らは、わしを、長と呼ぶ。……と、言っています」
「長老、ということか」
霧島さんの言葉に、蜘蛛が、脚を一本だけ持ち上げた。
肯定の仕草なのかどうかは分からない。けれど、私はノートに「長老」と書いた。
◇
どうやって、私の声を知ったのか。
ズズを通して、私はまず、それを尋ねた。
長老の答えは、長かった。
途中で何度も、ズズが「むずかしい」と言い、長老はそのたびに、同じ組を弾き直した。
「糸は、うえへも、したへも、はってある。……うえの、おおきな、さわぎ。スライムの、こが、みちと、さけび、ひとの、むすめが、それを、ひとの、ことばで、いいなおした。……ぜんぶ、わしの、あしに、とどいた」
私は、ノートから顔を上げた。
十二日目に、調査課の部屋で考えたことだ。
蜘蛛の糸は層をまたいで張られているから、第三層の騒ぎが下まで届いたのかもしれない、と。
当たっていた。
六日前、第三層で私が訳し続けた声は、糸を伝わって、この巣まで下りてきていた。
「うえへ、いった、ものたちが、ひとに、きられずに、とおれた。……じゅうねんで、はじめてじゃ。だから、よんだ」
「私に、何を」
長老は、すぐには答えなかった。
糸が一本、細く鳴って、すぐに止んだ。
「せくな。ことばは、ひとつずつじゃ」
ズズが訳した、その言い方に、私は少しだけ笑ってしまった。
島のおばあさんも、録音を急ぐ私に、よく同じことを言った。
"長老いいキャラ"
"急くな、で草"
"先生、今ちょっと笑った?"
途中で、犬飼さんが、そっと手を挙げた。
「あの、先生。俺も、挨拶とかしたほうがいいっすかね」
「挨拶、ですか」
「犬飼ハヤテっす! 先生の護衛っす! よろしくお願いしまーすっ!!」
通路じゅうの糸が、一斉に、びりびりと震えた。
天井の蜘蛛たちが、脚を縮める。
霧島さんが、無言で犬飼さんの頭を押さえた。
「……でかいの。いまの、けんかを、うるときの、こえの、おおきさだぞ」
「マジっすか!?」
長老の糸が、一度だけ、短く鳴った。
ズズが、少し考えてから訳した。
「げんきな、たてじゃ、と、いってる」
「盾って、俺のことっすか!? 褒められたっすか!?」
「たぶん、半分くらいは」
"半分で草"
"ハヤテ、蜘蛛にまで盾扱いされてる"
"声量で喧嘩売るのやめろ"
長老が話せるのは、一度に少しずつだった。
一組弾いて、待つ。私が繰り返す。ズズが直す。もう一度弾く。
夕方までに、ノートには蜘蛛の語が十一並んだ。
ズズは、途中から訳すたびに体が薄くなって、最後は容器の底でくたりと伸びていた。
その容器のまわりに、いつの間にか、手のひらほどの小さな蜘蛛が何匹も集まっていた。
子どもだ、と思う。
容器の縁を、細い脚で、こつ、こつ、と叩いている。
「やめろー。おれは、たべものじゃないぞー」
声に力が無い。
子蜘蛛たちは、それを面白がるように、もう一度こつこつと叩いてから、糸の上へ散っていった。
分かったことがある。
蜘蛛の言葉の高さの並びは、スライムの言葉と、言い方の形が同じだ。命令も、問いも、警告も。
違うのは音の出し方だけ。スライムは泡で、蜘蛛は糸で、同じ形の文を話している。
その頁を配信のカメラに映したとき、一つのコメントが流れた。
"最小対、取れてます"
名無しの音声学徒さんだった。
糸の強さだけが違う二つの組を、私が並べて書いた頁だ。正しい。たしかに、取れている。
ただ、その言い方が、少しだけ引っかかった。
最小対が「取れてます」。
研究室のゼミで、院生が先生に報告するときの、決まった言い方だ。
一般の人は、たぶん、そうは言わない。
気のせいかもしれない。
私はコメントに軽く頭を下げて、次の組を書き取った。
◇
第八層の階段の脇に、協会の中継所がある。
コンクリートの小さな小屋で、寝袋が四つと、湯を沸かす道具が置いてあった。
今夜は、ここに泊まる。
霧島さんが、そう決めた。帰りに三時間、また来るのに三時間かけるより、安全だという判断だった。
「見張りは私がする。犬飼、お前は寝ろ」
「いや、俺、護衛なんで! 霧島さんこそ寝てくださいっす!」
「明日、お前が眠そうな顔で盾を持つほうが危ない」
「……うっす」
湯を沸かして、三人で保存食を食べた。
霧島さんは、食べながら、スマホの画面を一度だけ見た。
「本部から連絡があった。久我教授の翻訳AIを、四日後に、支部で実演させるそうだ」
「……そうですか」
「AIは、人の耳より速い。上は、速いものを好む」
私は、湯の入った紙コップを両手で持った。
「速いのは、いいことだと思います。ただ」
「ただ」
「聞いていない言葉は、訳せません。どれだけ速くても」
霧島さんは、それ以上、何も言わなかった。
小さく頷いて、刀を膝の上に置き直しただけだった。
犬飼さんは、寝袋に入って三分で、いびきをかき始めた。
ズズは、容器の水の中で、平たくなって眠っている。
私は、ヘッドホンをつけたまま、小屋の壁に背中を預けていた。
接触マイクは、小屋の外の糸に、貼ったままだ。
夜の巣は、昼より静かだった。
ときどき、遠くの糸が、短く鳴るだけ。
その静けさの中で、一本だけ、低い糸が鳴った。
長老の弾き方だ。
私は、ノートの今日の頁をめくりながら、一組ずつ照らし合わせた。
まだ十一語しか知らない。けれど、その十一語で、だいたいの形は取れた。
あした。
スライムの、こ。
つれてこい。
そのこの、むれの、こと。
最後の組だけは、どの語とも合わなかった。
私は、ズズを起こさないように、そっとヘッドホンを外した。
話さねばならん、と言っているように、聞こえた。




