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任期切れの言語学者、魔物の鳴き声を翻訳する配信を始めたら ~拾ったスライムが「下から来る」と言っています~  作者: ま
第二章 糸の長老

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第11話 第八層の糸



 十五日目の朝、管理棟の前の広場は、まだ薄暗かった。


 霧島さんは、いつもの背広ではなく、灰色の探索服を着ていた。

 腰に短い刀。胸には、使い込んだ革の帯。

 元上級探索者という言葉が、初めて形になって見えた気がした。



「特例の書類だ。第八層まで、私の同行を条件に許可が出た」


「ありがとうございます」


「礼は要らない。調査班の仕事だ」



 犬飼さんは、新しい盾を背負って、何度もその場で跳ねていた。



「第八層っすよ、第八層! 俺、初級なんで、普通なら三年は行けないとこっすよ!!」


「犬飼。声を落とせ。まだ地上だ」


「うっす……」



 保存容器の中で、ズズが、ぷちゅ、と鳴いた。



「でかいの、うるさいぞ」


「――うるさい、と言っています」


「ズズまで!?」



 犬飼さんは肩を落としてから、思い出したようにスマホを出した。



「そうだ先生、これ、見たっすか。朝のニュース」



 画面には、見覚えのある顔があった。

 研究室の窓を背にした、久我先生だ。


 見出しは「魔物の声をAIで翻訳 東都大・久我教授が協会に提案」。



『個人の耳に頼る翻訳には、限界がありますよ。学問というのはね、誰がやっても同じ結果が出るものでなければならない。私どもは、企業と組んで、翻訳AIを開発しています』



 画面の中の先生は、穏やかに笑っていた。

 五日前に、ワイドショーで「偶然ですよ」と言っていたのと、同じ顔で。



「……AIで、どうやって訳すんでしょう」


「さあ。協会の本部に売り込みに来ていると、昨日、上から聞いた」



 霧島さんが、短く言った。



「気にするな。今日は、下の仕事だ」




◇




 東口の専用階段から、私たちは下りた。


 第二層、第三層。旧坑道の前を通るとき、私は少しだけ足を止めた。

 蝶番の折れた鉄柵は、開いたままだった。奥は静かで、湿った土の匂いがした。


 容器の中で、ズズが、ぷちゅ、ぷ、と鳴いた。



「ここ、みんな、とおったとこだな。まだ、においがするぞ」


「みんなは、この先で、元気ですか」


「しずかだ。しずかなのは、いいことだぞ」



 協会の見回りでも、旧坑道の先の魔物は、第二層の東の端で静かにしている、と聞いた。

 人の来ない区画で、ただ、じっとしている。何かを待つように。


 第五層を過ぎると、霧島さんの歩き方が変わった。

 足音を立てない。曲がり角の手前で、必ず一度止まる。



「ここから先は、私の後ろを歩け。三歩以上離れるな」



 第六層の広い通路で、前のほうから、乾いた足音の群れが近づいてきた。


 大ネズミだった。

 十匹、二十匹。灰色の背中が、波のように揃って、こちらへ走ってくる。


 犬飼さんが、今度は黙って、私の前に盾を出した。

 霧島さんは、刀の柄に手を置いただけで、抜かなかった。


 大ネズミたちは、私たちの横を、すり抜けていった。

 一匹も、こちらを見なかった。前だけを見て、上への階段のほうへ消えていく。


 チッ、チチッ、という速い声が、遠ざかる。

 その中に一度だけ、聞き覚えのある高さの並びが混じった。



「……下」


「いまの、か」


「はい。速すぎて、ほかは分かりません。でも、『下』だけは、はっきり」



 霧島さんは、群れの消えた階段のほうを、しばらく見ていた。



「第六層は、私が若いころ、一番よく歩いた層だ。大ネズミが群れで上へ走るのは、見たことがない」


「先月の数字の、続きですか」


「おそらく。……まだ、止まっていない」



 記録配信の許可は、昨日のうちに取ってあった。

 位置が分かるものは映さない、という条件つきだ。


  "第八層!? 初級で!?"

  "協会の特例ってマジであるんだ"

  "霧島さんの歩き方がガチ"

  "元自衛官です。あの人、背中に目がついてますね"


 第七層の階段を下りきったところで、空気が変わった。


 白い。

 通路の壁も、天井も、細い糸で覆われている。

 懐中電灯の光が糸に当たって、霧のようにぼやけた。



「第八層だ。糸に触るな」



 霧島さんの声が、いつもより低い。


 耳を澄ますと、低い唸りが聞こえた。

 録音で聞いたのと同じ音だ。ただし、録音よりずっと近く、ずっと大きい。


 通路の糸が、全部、細かく震えている。



「ことは」



 容器の中で、ズズが、体を固くしていた。



「みんな、こっちをみてるぞ」



 懐中電灯を上へ向けた。


 天井の糸の間に、黒い影が並んでいた。

 大きい。一匹一匹が、大型犬くらいある。

 八本の脚を糸にかけて、じっと、こちらを見下ろしている。



「うおっ……!?」



 犬飼さんが盾を構えかけて、霧島さんの手に止められた。



「動くな」



 影は、前にも、後ろにもいた。

 来た道の糸の上にも、いつの間にか三匹。


 囲まれている。


  "え、やばくない?"

  "蜘蛛無理な人ブラバ推奨"

  "霧島さん刀抜いてない、なんで?"

  "抜いたら終わるやつでは"



「き、霧島さん。これ、ヤバくないっすか」


「この巣は、層の端から端まで、全部つながっている。一匹を斬れば、全部が来る」



 霧島さんは、天井から目を離さずに言った。



「それに、まだ、どれも襲ってきていない」



 言われて、気づいた。

 蜘蛛たちは、見下ろしているだけだ。脚を縮めて飛びかかる構えの個体は、一匹もいない。


 待っている。

 何を。


 私は、鞄から小さな機械を出した。

 接触マイク。物に貼りつけて、その物の震えを音にする道具だ。島で、太鼓の皮の響きを録るのに使っていた。


 壁の糸の一本に、そっと、それを貼った。



「鳴瀬さん」


「触ってはいません。貼っただけです」



 ヘッドホンの中に、音が流れ込んできた。


 弾く音だった。

 糸が弾かれて、細く鳴る。短く、長く、短く。高さが、三つずつ組になって並んでいる。


 唸りに聞こえていたのは、何百本もの糸が、少しずつずれて鳴っている音だった。



「これは、唸りではありません」


「何だ」


「たくさんの蜘蛛が、それぞれ、糸を弾いて話しています。それが重なって、唸りに聞こえていたんです」



 ズズが、容器の縁まで上がってきた。



「まってるって、いってる。こえを、ひろう、むすめを。ずっと、まってたって」


「――待っていた、と言っています」



 天井の蜘蛛たちが、一斉に、脚を止めた。


 糸の震えが、引いていく。

 波が沖へ戻るように、通路の奥のほうへ。


 最後に、一本だけ、太い糸が鳴った。


 低い。

 ほかの糸より、ずっと低く、ずっとゆっくりと。


 通路の奥の暗がりから、何かが下りてくる。

 糸を一本ずつ確かめるように、静かに。


 懐中電灯の光の輪の中に、まず脚が一本入った。

 灰色の毛に覆われた、私の腕より太い脚だった。


 続いて、二本目、三本目。

 胴体が光の中に入ってきたとき、犬飼さんが、小さく息を呑んだ。


 ほかの蜘蛛の、倍はある。

 背中の毛は白く褪せて、ところどころ、古い傷のように抜けていた。

 八つの目が、一つずつ、私を見た。


 その蜘蛛が、脚の一本で、目の前の太い糸を、ゆっくりと弾いた。


 低い音が、ヘッドホンの中ではなく、私の胸の骨に、直接響いた。



「……としよりだ」



 ズズが、容器の底で、ささやいた。



「くもの、いちばんの、としよりだぞ」



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