第10話 言っちゃいけない言葉
ズズは、朝になっても洗面器の底から上がってこなかった。
体の色は、灰色から薄い水色に戻りかけている。
けれど私が近づくと、ぷちゅ、と小さく鳴いて、底のほうへ平たくなる。
「昨日は、ごめんなさい。もう、あの声は流しません」
返事は無い。
私は冷たい水を足して、ちゃぶ台の前に座った。
島で録音をしていたころ、一度だけ、おばあさんに叱られたことがある。
海で亡くなった人の名前を、録音のために、もう一度言ってほしいと頼んだときだ。
死んだ人の名前は、口に出すと呼んでしまう。
だから言わない。おばあさんは、それだけ言って、その日はもう録音させてくれなかった。
言ってはいけない言葉は、どの言葉にもある。
そして、そういう言葉ほど、その言葉を話す人たちにとって大事な意味を持っている。
「ズズ。言わなくても、いいです」
水面が、少しだけ揺れた。
「でも、もし、言っても大丈夫だと思えたら、教えてください。私は、ズズの群れの歌を、知りたいんです」
◇
昼前、私は協会の会議室にいた。
長机の向こうに、支部長と、知らない顔の職員が四人。
こちら側に、霧島さんと、私と、なぜか犬飼さん。
「本日付で、探索者協会多摩支部に、魔物言語調査班を置きます」
支部長が、書類を読み上げる。
「班長、調査課係長、霧島透。調査員、鳴瀬ことは。護衛、犬飼ハヤテ。協力者、ズズ」
協力者の欄に、本当にズズの名前が書いてあった。
種別のところには「魔物」とある。
「うおおおっ!! 正式っすか!! 俺、正式に護衛っすか!!」
犬飼さんが、椅子を倒して立ち上がった。
支部長が、ゆっくりと眼鏡を押し上げる。その隣で、霧島さんが口を開いた。
「犬飼」
「はいっす!!」
「声を落とせ」
霧島さんの声で、犬飼さんは椅子を起こして座った。
声は、落ちなかった。
職員の一人が、手を挙げた。眼鏡をかけた、年配の男の人だ。
「一つだけ確認させてください。スライムの鳴き声の解釈に、協会が予算をつける。外からどう見えるか、考えましたか」
「考えた」
霧島さんは、手元の紙を一枚めくった。
「第三層の件で、死者が出ていれば、少なくとも十人。人が詰まった出口の前に、大トカゲが三体いた。協会の報告書には、そう書く」
年配の職員は、しばらく黙っていた。
それから、手を下ろした。
「……ズズさんの日当は、どう計上しますか」
「冷たい水で頼む」
会議室の何人かが、こらえきれずに笑った。
霧島さんは、笑っていなかった。たぶん、本気だった。
会議が終わったあと、私は霧島さんに、昨日の夜のことを話した。
第四層の下から聞こえた、二音の低い声。ズズが「言っちゃいけないことば」と言ったこと。
「二音、というのは珍しいのか」
「スライムの語は、いままで全部、三音でした。二音の語は、一つもありません」
私は、ノートの頁を見せた。
「人間の言葉でも、いちばん古い言葉は短いことが多いんです。昔からずっと使われてきた言葉は、使われるうちに削れて、短くなる。もしこの二音の言葉が、すべての魔物に共通の、いちばん古い言葉だとしたら」
「……底から、ずっと伝わってきた言葉、か」
霧島さんは、窓の外を見た。
管理棟の下には、ダンジョンが三十層ぶん、地図に載っている。その下は、まだ誰も知らない。
◇
夜、アパートに帰ると、ズズが洗面器の縁にのっていた。
「ことは」
久しぶりに、名前を呼ばれた気がした。
「おかえり、と言っていいですか」
「いいぞ。……ことは、すわれ」
言われたとおりに、ちゃぶ台の前に座る。
ズズは、しばらく体を揺らしていた。何かを決めかねているときの揺れ方だ。
「おれ、むれで、いちばんちいさかった。だから、うたを、いちばんたくさん、きいた」
「群れの歌、ですね」
「うたのさいごに、いつも、そのことばがでてくる。でも、ぜったい、こえにだしちゃだめって。だすと、くるって」
死んだ人の名前と同じだ、と思った。
口に出すと、呼んでしまう。
「ことはは、きくだけだぞ。ながすなよ。かくだけだぞ」
「はい。書くだけにします」
私は、録音機のスイッチを切った。
探知機だけをつけて、ヘッドホンをかける。
ズズの体が、きゅっと縮んだ。
そして、今まででいちばん小さな、低い泡の音が、二つだけ鳴った。
ぷ……ちゅ。
探知機の中で、その二音は、ほとんど高さを動かさずに、ゆっくりと沈んでいった。
おととい、第四層の下から聞こえた声と、同じ形だった。
頭の中で、音が言葉に変わる。
日本語の、どの言葉にも当てはまらない。だから私は、音をそのまま、仮名で書き取った。
「……もだ」
ズズは、それ以上、何も言わなかった。
洗面器の底に沈んで、朝まで、上がってこなかった。
ノートの四十二語めの次に、私は一行だけ書き足した。
もだ。意味、不明。口に出してはいけない言葉。
◇
次の日の夕方、霧島さんから電話が来た。
『鳴瀬さん。第八層の無人機が、妙な音を録ってきた。来られるか』
調査課の部屋で、霧島さんはノートPCの音声を再生した。
ぶうん、ぶうん、と低い唸りが、規則正しく繰り返される。
声ではない。何かが細かく震えている音だ。
「第八層の大蜘蛛の巣だ。無人機が近づいたら、巣全体がこの音を出し始めた。三時間、止まらなかった」
私はヘッドホンをつけ、声紋を開いた。
唸りの中に、高さの並びがある。三つずつのまとまり。スライムやゴブリンとは違うけれど、形の作り方が、どこか似ている。
ズズの容器の蓋を開ける。
「ズズ。これは、分かりますか」
ズズは、しばらく黙って聞いていた。
それから、ゆっくりと体を伸ばした。
「くものだ。くもの、としよりのだ。むずかしいけど、すこし、わかる」
「何と言っていますか」
ズズが泡で訳し、私が言葉にする。
「こえを、ひろう、むすめ。……おりてこい」
霧島さんが、私を見た。
「蜘蛛の糸は、層をまたいで張られていると聞いたことがあります。第三層の騒ぎが、糸を伝わって、下まで届いたのかもしれません」
「蜘蛛が、あなたを呼んでいるということか」
「たぶん。それと、もう一つ」
唸りの最後に、低い二音が、何度も混じっていた。
ほとんど高さの動かない、ゆっくりと沈む二音。
もだ。
私がノートを指さすと、霧島さんは、しばらくその頁を見ていた。
それから、壁の断面図の第八層に、赤いピンを一本刺した。
「第八層は、初級の探索者証では入れない。私が同行して、特例を取る」
「いつ、行けますか」
「準備に三日かかる」
霧島さんは、カレンダーに丸をつけた。
「三日後だ。第八層へ下りる」
↓第1章の番外編「十本目の音」(霧島視点。ことはを試した十本の音と、引き出しの中の一枚)
https://note.com/wise_turtle184/n/n09fa9386db11




