第77話 契約の条件、あるいは遠隔同期のソリューション
静粛が満ちる地下最深部――『アーク=ルミナス』の最重要被検体隔離房。
無数の魔導端末が放つ青白い光のなかで、九歳の少年カイト・フォン・アデルハルトは、絶え間なく指先を滑らせて要塞の拠点システム『Root Server』への侵蝕を進めていた。
その背後、空間の位相がわずかに歪み、蜃気楼のように光を屈折させながら『影』が静かに姿を現す。
「失礼、ハッキングの手を止めてしまう非礼をお許しください。改めまして自己紹介を――私はヴァルハイト連邦最高幹部直属、『第0特務室』所属の『影』と申します」
抑調の効いた、極めてスマートで丁寧な声が響く。カイトは端末から視線を切ることなく、指先を動かしたまま冷ややかな声を返した。
「……『第0特務室(Sec.0)』か。要塞の通信ログと外部遮断ポートを洗っていた時に、王国暗部が最も警戒する『存在しない組織』の暗号化コードを見かけたな。連邦の表の組織図には載っていない、最高機密機関のトップエージェントというわけか」
隠蔽の膜の奥で、『影』の琥珀色の瞳が感嘆に細められた。この要塞のRoot Serverをハックする過程で、王国暗部すら秘匿する『Sec.0』の存在と識別コードまで既に解読・把握していたとは。
(……やはり恐ろしい観察眼だ。こちらの所属まで事前に洗われているのなら、話が早くて助かる)
シェイドは軽く首を振ると、一切の感情論を排除し、純粋な利益と成功率のみを提示するプロの交渉人の顔へと切り替えた。
「ご理解が早くて助かります、カイト。さて、正式なお取引に移る前に、私から一つ『極めて合理的なソリューション』をご提案させていただけませんか」
「……話を聞こう」
「貴方が内側からこの要塞の支配を進めつつ、ご自身の足で連邦側の亡命ルートや受け皿を事前に視察・調整されたいのでしたら……私の妹であり、我が特務が誇る最高の模倣手配師『ベルタ』を、単なる影武者以上の『中継生体端末』としてこの部屋に配置いたします」
カイトの指先が、初めてピタリと止まった。
「……中継生体端末だと?」
「左様です。ベルタは外見や声だけでなく、貴方の魔力波長、生体バイタル、さらには内部の核が発する固有の脈動までも擬似的に完全模倣してみせます。そして何より――彼女自身が強力な『空間位相の中継アンテナ』として機能するのです」
『影』は透けた指先を優雅に揺らし、その置換トリックの全貌を語る。
「先日の試金の際、空間屈折と位相の干渉コードを一瞬で解読してみせた貴方なら、すでに独自の『転移』術式を構築済み……あるいは容易に展開可能とお見受けします。貴方がその『転移』を用いて連邦へ赴き、向こうで外側の網を編んでいる最中も、ベルタを媒体として高密度の遠隔同期回線を維持できます。つまり……貴方は連邦に身を置きながら、まるでこの部屋に留まっているかのように、彼女経由で要塞のシステムハッキングを遠隔から継続できるのです」
カイトはゆっくりと振り返り、蜃気楼の奥にある『影』の思考を鋭く見定めた。
(……先日の攻撃を裁いた時の魔力波形から、俺の空間移動能力まで推論して見抜いたか。その上で、俺の生体偽装データとコアの波形を模倣させ、生体アンテナとして機能させる……。確かにそれなら、監視センサーには『カイトが部屋で絶え間なく魔導コードを操作している』ようにしか見えない。俺自身は連邦で自由に動きながら、要塞の支配度を安全に100%まで上げ続けることができる……!)
単なる留守番の身代わりではなく、ハッキングの作業効率と隠蔽性を双方跳ね上げる高度なシステム連携。技術者としてのカイトの琴線に、その提案は深く突き刺さった。
「……なるほど。生体中継を利用した暗号化リモートアクセスか。リスクを削りながら作業領域を二倍に広げる、実に見事な設計思想だな」
冷徹にその合理性を認めたカイトは、静かに問う。
「悪くない。だが、リスクを冒してまでそこまでの仕掛けを提供するお前たち――『Sec.0』のメリットは何だ?」
『影』の唇に、薄く洗練された笑みが浮かぶ。
「至って単純なビジネスですよ。貴方という規格外の『特異点』を無傷で、かつ100%のパフォーマンスを発揮できる状態で我が国へ移籍していただくこと――それが『第0特務室』にとって最大の利益だからです。無謀な強行突破で要塞のデータを破棄されたり、貴方の価値を損ねるリスクに比べれば、極上の環境をお膳立てすることなど安い投資です」
互いの利害を淡々とすり合わせ、最も効率的な解を叩き出す。そこには子供扱いや押し付けがましい救済など微塵も存在しない。あるのは「対等なビジネスパートナー」としての冷徹な信頼関係のみだった。
「……乗ろう。その『中継端末』の手配を進めろ。俺の生体波形と同期させ、隙のない遠隔アクセス環境を構築してやる」
「――契約成立、ですね。貴方という至高の『特異点』と手を握れること、光栄に思います」
『影』は深く、優雅に頭を垂れた。その動きに伴い、周囲の空気の緊張感が一段と跳ね上がる。
「では明日、私の信頼できるパートナー――ベルタをこの部屋へお送りいたします」
そう言葉を残すと、『影』の輪郭は空間の歪みの中にゆっくりと沈み込み、気配ごと完全に消失した。
静寂を取り戻した閉塞空間で、カイトは青白く発光する魔導画面へ静かに視線を戻す。その漆黒の瞳の奥で、冷ややかな知性と野心が静かに燃え上がっていた。
(……王国を内側から蚕食し、大国の『影』すら自らの盤上に組み込む。――舞台の整地は終わった)
王国が誇る最深部の要塞が、一人の異物と影のエージェントによって完全に掌握されつつあること――そして、この暗黙の契約が両国の勢力図を根底から塗り替える引き金となることを、この時の王国側はまだ知る由もなかった。




