第78話 虚像の同調、あるいは深層の代理人
契約が交わされた翌日――『神聖術式監査局』の地下最深部、最重要被検体隔離房。
鉄と焦げついた魔力の匂いが立ち込める密閉空間で、無数の魔導端末から発せられる青白い光が、九歳の少年カイト・フォン・アデルハルトの冷徹な横顔を照らし出していた。
カイトの指先は、絶え間なく虚空に展開された光のキーボードを打ち叩き、要塞の拠点システム『Root Server』の暗号障壁を一枚ずつ着実に解体し続けている。
ふと、要塞の監視ルーンが室内を走査するコンマ数秒の周期の隙間――空間の層が僅かに揺らいだ。
音もなく、壁面の不気味な影の中から一人の人物が滑り出すように現れる。
「初めまして、カイト様。お姉様――『影』より引き継ぎを受け着任いたしました、ベルタと申します」
洗練された深紺の給仕服を纏い、一隙の乱れもない気品を漂わせた女性――『影』の妹であり、「第0特務室」が誇る最高の模倣手配師、ベルタであった。
ベルタは極めて滑らかに、隙のない洗練された一礼を捧げた。その動作には一切の無駄がなく、殺気も気配すらも完璧に制御されている。
カイトは端末操作を維持したまま、漆黒の瞳をわずかに動かして目の前の人物を鋭く観察した。
(……気配の殺し方、呼吸の周期、空間への存在の馴染ませ方。どれをとっても超一流の専門職だな。身体構造の柔軟性と魔力受容体の波長も極めて可塑性が高い。これなら俺のコアの脈動や生体バイタルをそのまま流し込んでも耐えられる)
初見で相手のポテンシャルと「生体アンテナとしての適合度」を即座に割り出したカイトは、薄く口角を上げた。
「挨拶は短くて結構だ。互いに時間は有限だからな。……手筈通り、同期のプロセスへ移行する」
「承知いたしました。いつでもお通しください」
ベルタが一切の躊躇なく、胸元に細い指先を当てて姿勢を正す。
カイトは虚空に特別なコマンドラインを展開し、自身が構築した《生体パラメータ偽装体の全データと、身体の奥底で揺らめく『黒曜神経核』の疑似波長コードを浮上させた。
「――同期コード、送信」
カイトの指先から放たれた青白い魔力波長が、ベルタの身体へと滑らかに流れ込んでいく。
その瞬間、ベルタの全身を微細な空間の歪みが包み込んだ。
『存在擬態』と模倣術式が同時に起動し、彼女の骨格、筋肉の密度、皮膚の質感、さらには髪の長さや声帯の構造に至るまでが、コンマ数秒の間に劇的な変容を遂げていく。
やがて空間の揺らぎが収まった時、そこに立っていたのは――髪の毛一本、瞳の深遠な光に至るまでカイトと寸分違わぬ「もう一人の九歳の少年」であった。
「……これより、遠隔思考プロトコルの同期テストを開始する」
本物のカイトが短く告げ、数歩離れた位置から意識のネットワーク越しに高密度の思考パケットを打ち込んだ。
直後、「カイトの姿をしたベルタ」の瞳に絶対的な静寂が宿る。
その指先が、本物のカイトと全く同じ無駄のない極上の軌跡を描き、端末のキーボードを打ち叩き始めた。
「――要塞Root Server、第14暗号レイヤー解読完了。プロキシ経由のレスポンスタイム、0.001秒以下。……システム上の遅延は皆無だな」
「カイトの姿をしたベルタ」の口から漏れたのは、カイト自身の冷徹で不敵な声と、完璧な思考パターンそのものだった。
客観的に「自分の声と口調で完璧なハッキングをこなす自分」を見つめ、本物のカイトは満足げに鼻で笑った。
「素晴らしい再現性だ。肉体の模倣だけでなく、俺が流し込んだハックのロジックと口調まで滞りなくアウトプットできている。これなら監査局の生体診断装置どころか、最深部の自動防衛システムすら完璧に騙し通せる」
カイトからの思考入力を一時解除すると、擬態したベルタの瞳に彼女自身の意識が静かに戻り、丁寧な姿勢を正した。
「恐れ入りました……。流し込まれる思考パケットの密度と速度が桁違いで、脳の模倣領域が心地よい熱を帯びるほどです。ですが、中継端末としての負荷に問題はありません」
「頼もしい限りだな。……では、向こう側(連邦)への本接続へ移行する」
カイトは瞼を閉じ、脳内の思考領域を全展開した。昨日の契約で『影』から渡された『Sec.0』管轄の極秘セーフハウスの暗号化空間座標――その膨大なコード群を頭脳の中で超高速処理し、システムへの介入コマンドとして瞬時に打ち込んでいく。
(――エアギャップコード実行。空間技能ライブラリ・《座標再定義転移》)
カイトが脳内で暗号化術式をコンパイルし、システムコマンドを実行した瞬間、ベルタの体内の模倣回路が中継アンテナとして完全同期。カイトの意識とハッキング権限のラインが、次元の隙間を越えてベルタへとダイレクトに繋ぎ止められた。
直後、物理法則を上書きされたカイトの身体が極小の空間歪曲へと吸い込まれ、光の粒子すら残さず音もなく消滅した。
要塞の最高レベルの魔導センサーも、死角を映す監視カメラのレンズも、その脳内ハックによる超常の『消失』を一切感知することはできなかった。
◇ ◇ ◇
本体は要塞の領域を脱出し、国境を隔てたヴァルハイト連邦の領域へと赴く。
一方、要塞の隔離房には「カイトの姿をしたベルタ」が一人留まり、双方の意識と通信ラインが次元の隙間を越えて強固に同期していた。
『……転移完了。周囲の安全および座標の整合性を確認。回線接続、良好だ。これなら向こうに身を置きながら、この要塞のRoot Serverを支配率100%まで安全に削り倒せる』
頭脳にダイレクトに響くカイトのリモート音声を受け、「カイトの姿をしたベルタ」は口角を微かに持ち上げた。
『留守を頼むぞ、ベルタ』
「は。――ご道中、お気をつけて。外の盤面はカイト様の手で、内部の維持はこのベルタがお護りいたします」
取り残された隔離房の中、「カイトの姿をしたベルタ」は静かに端末の前へ腰を下ろすと、本物と全く同じ滑らかな指つきで、遠隔から送られてくる膨大な魔導コードの入力を開始するのだった。




