第76話 深層のチェスボード、あるいは来たる刻への布石
雲海を突き抜けるように聳え立つ、白銀の魔導合金と高純度結晶ガラスで組み上げられた幾何学的な超高層タワー――。
ヴァルハイト連邦の首都中央に鎮座するその建造物は、表向きは外交や情報管理を統括する国家直属の最高峰公的機関として、圧倒的な気品と透明感を放ってそびえ立っている。
その最上階――眼下に広がる首都の夜景を一望する洗練された空間。そここそが、国家最暗部たる『第0特務室』の本拠地内に設けられた、席次第1位『影』専用のプライベートバーであった。
上空を駆け抜ける冷たい風が分厚いガラス壁をかすかに震わせ、雲間から覗く街の灯りが、青白い宝石をちりばめたように眼下で輝いている。
深々と革張りソファに腰かけているのは、偽装も変身もすべて解いた素の姿――。肩から背中へと滑らかに流れる、宵闇の濃紺を深く溶かし込んだような艶やかな長髪。そして目元には、月華の雫を湛えたかのように澄み切った、冷やかな琥珀色の瞳。男とも女とも判別のつかぬ神秘的で端整な貌と、冷徹で洗練された気品をあわせ持つ『影』の真の素顔であった。
カウンターの向こう側から、専属のメイドが慣れた手つきでシェイクしたグラスを静かに差し出す。
静謐な室内に、極上の氷が繊細なカットのグラスと触れ合い、チリンと涼やかな音を奏でた。
「お帰りなさいませ、――様。長旅のお疲れを癒やす『トパーズ・ヴェール』でございます。お酒に合わせたおつまみもご用意いたしました」
置かれたのは、極上の熟成酒と魔導香草が織りなす、芳醇でスモーキーな香りを漂わせる名杯『トパーズ・ヴェール』。結晶ガラス越しに夜景の光を吸い込み、宵闇を溶かしたような深いトパーズ色の輝きがグラスの底でゆるやかに揺らめいている。
その傍らには、酒のスモーキーな風味を引き立てる小皿――結晶塩と香草オイルを微かに散らした、特製肉の燻製と濃厚な熟成チーズのオードブルが静かに添えられた。
「ありがとう、ベルタ。アーク=ルミナスの地下は冷えていましたからね。喉を潤したかったところです」
『影』は細い指先でグラスを手に取り、一口口に含む。柑橘を思わせる繊細な甘酸っぱさと芳醇な熱が、ミッションで強張っていた喉と身体をじわじわと解きほぐしていく。続いて添えられた燻製をひとつ摘んで口に運ぶと、口いっぱいに広がる豊かな香味が名酒の深みをより一層引き立てた。
「無事のご帰還、何よりでございます。……そのご様子ですと、今回のご公務には何か良いお土産がございましたか?」
「お土産、ですか……。まあ、とんでもない『特異点』でしたよ。焦って手を出すのが馬鹿らしくなるくらいにはね」
澄み切った琥珀色の瞳を細め、グラスの中で丸い氷をカランと遊ばせる。透き通るトパーズ色の液体越しに、眼下に広がる首都の夜景がゆらゆらと幻想的に揺らめいていた。
「……ただ、話してみると少し興味深い点もありました。貴族の教養とはかけ離れた、洗練を削ぎ落とした無骨な物言いでね。『けいさつ』などという聞き慣れない概念まで口にしていました」
ベルタは静かに手元を止め、細い眉を微かに寄せた。
「無骨な物言い、ですか……。アデルハルト伯爵家のご令息ともあろう方が?」
「ええ。ですが……わずか五歳で暗部の底へと幽閉されてからの数年間、あのような極密空間でどのような生を強いられてきたのかを思えば、言葉の端々に削ぎ落とされた乾いた響きが混ざるのも無理はないでしょう。こちらで調べた情報によると、なぜか提供されていた食事だけは絶品揃いだったようですが……ふふ、恐らく各種検査や体調管理を考慮してのことでしょうね。いずれにせよ、守られるべき幼子としての時間など、一切与えられなかったのですから」
ベルタは静かに目を伏せ、手元を整えながら幾分低く透き通った声で返す。
「……思考の軸を切り替える『性別相反』や、他者の心と同調する『感情浸透』――自我を失いかねない極限の試練を重ねてきた我ら『久遠律の民』の目から見ましても……通常の幼子であれば、あのような遮蔽空間で正気を保つことすら不可能な環境でございますね」
「ええ。他者の精神や不快な異物に己を呑まれぬ術を極めた貴女にそう言わせるほど、あの空間は過酷でした。……ですがあの怪物は狂うどころか、その暗闇の底で冷徹に牙を研ぎ続けていたのですよ」
静かな静寂が二人の間に流れる。『影』は短く息を吐くと、グラスの底に僅かな名残を残し、静かに飲み干した。ソファから滑らかに立ち上がると、洗練されたバーの奥へと続くプライベートバスルームへと向かう。
◇ ◇ ◇
重厚な石造りの扉の向こうに広がるのは、白磁と高純度結晶ガラスで仕立てられた幻想的なスパエリアだ。広々とした湯船には、身体の疲労を急速にリカバリーする魔導香草のオイルが混ぜられ、心地よい温度の湯がなみなみとたたえられている。
脱ぎ捨てた衣類を脇にやり、なめらかな湯船に滑り込むように身を沈める。温かな湯の熱が、アーク=ルミナスの地下深層で肌にしみついた冷気と、高張力なミッションでこわばっていた筋肉をゆっくりと解きほぐしていった。
ゆらゆらと水面に漂う宵闇の濃紺の長髪。立ち昇る優雅な湯気越しに、月華の雫を宿したかのような琥珀色の瞳が、天井の結晶回路が放つ柔らかな光を吸い込んで静かに輝いている。
(――カイト・フォン・アデルハルト。九歳)
湯船の中で深く呼吸を整えながら、『影』は思考の海へと沈んでいく。
焦って強行突破で奪還を試みれば、あの少年の綿密なハッキングを台無しにし、要塞そのものを敵に回した泥沼の戦いになる。あの怪物が内側から支配を進めている以上、私たちが焦る理由はどこにもない。
カイトが内側から要塞の盤面を完全に整え、自ら動き出すその時まで、自分たちに課された役割は一つだ。
連邦側での身分偽造、追跡を逃れる潜入・逃亡ルートの確立、そして足のつかない裏決済ラインの完備。彼が動き出すまでの間に、どんな追手も寄せ付けない完璧な亡命基盤を外側に用意してやればいい。
湯のぬくもりに身を委ねながら、『影』の唇にふっと捉えどころのない薄い微笑が浮かんだ。
「……焦る必要はありませんね。急ぐべきは、あの怪物を迎え入れる完璧な『網』を編むことです」
身体の疲労が溶け去っていくとともに、連邦の『影』としての新たなる長期戦略が、深遠な静寂の中で着々と組み立てられていくのだった。




