第75話 影の跳躍、あるいは水面下の波紋
アーク=ルミナス神聖王国の監視網は、全域の魔術通信や微弱な信号をも常に走査している。ここで不用意な通信を飛ばせば、それだけで異分子の潜入を察知されかねない。『影』は、最初から電波や魔導波による通信という手段を選択しなかった。
要塞外郭を覆う高密度ルーンの防壁をすり抜け、王都の地下深層から無音で脱出した『影』は、夜の静寂に包まれた場所へと向かった。
向かったのは、王都の一角に厳かに聳え立つ最大宗派『聖輪天環教』の大聖堂地下――その最深部に位置する禁域である。
そこに存在する『古代の転移魔法陣』は、教団内の専門機関『神代環理機構』の守護騎士と強力な防衛結界によって厳重に奉護されていた。
だが、その厳重を極める警備も『影』の前では無意味に等しい。久遠の時を生きる『影』は、表の顔として神代環理機構の特別巡回監査官『ルシアン・ヴァール』という最高幹部のIDと変装用コードを長年保持していた。
大聖堂へ接近する直前、『影』は路地裏の闇の中でまず『存在擬態』を発動。自らの色彩、熱源、音響、そして魔力波形そのものを空間から完全に消失させた。
その誰の目にも留まらない透明な領域の内部で、間髪入れずに『性別相反』と波長屈折を発動させていた。体躯を引き締め、目元には知性と厳格さを醸し出す銀縁の単眼鏡を装着。その奥に冷徹な鋼灰色の瞳を宿し、つばの広い黒の聖職帽と銀糸の刺繍が光る重厚な深紺の監査官礼服を、光熱と質感を捏造して衣服ごと瞬時に再構成してみせたのだ。
姿変えと身だしなみの再構築を完璧に完了させた後、『影』は『存在擬態』を静かに解除。威厳と冷徹さを漂わせる初老の監査官『ルシアン・ヴァール』として闇から姿を現すと、何食わぬ顔で堂々と大聖堂の地下へと足を踏み入れる。
重厚な禁域の扉の前で、ルシアンは最高位の権限を示す刻印章を提示。守護騎士たちの深々と頭を下げる敬礼を受けながら、何ひとつ疑われることなく最深部の転移室へと足を踏み入れた。
重厚な石造りの扉を静かに閉ざしたルシアンは、制御台へと堂々と歩み寄った。最高幹部たるアクセス権限を行使し、手慣れた手つきで制御ルーンへ認証コードを流し込むと、久遠の記憶から引き出した暗号座標をダイレクトに打ち込む。
すると、暗がりだった足元で、床一面に刻まれた古の幾何学模様が、まるで眠りから覚醒したかのように淡く輝き始めた。
(――空間同期確認。位相シフト、開始)
一瞬、澄んだオゾンと冷ややかな金属を思わせる魔力の匂いが鼻腔を突く。室内の空気が一気に重みを増し、肌を撫でるピリピリとした静電気のような微振動が全身を駆け巡った。
直後、腹の底を揺らす低い重低音とともに、青白く透き通る幾何学ルーンの群れが溢れんばかりの光彩を放つ。無数の粒子となって立ち昇るその光の奔流は、まるで生き物のように渦を巻き、空間そのものを水面のように歪ませていった。キーーーンと耳奥で透き通る高周波の響きがピークに達する。
光の旋風と次元の歪みへと身を委ねた『影』の身体は、アーク=ルミナスの監視圏外――ヴァルハイト連邦の『聖輪天環教』大聖堂にある『古代の転移魔法陣』へと、狙い違わず一飛びに消失した。
闇から解き放たれ、闇へと消え去る『影』の軌跡――それを捉えられる者など、この世界のどこにも存在しない。




