第72話 残痕の解析、蠢く異物
国境の警戒網を何重もの虚飾で難なく突破した『影』は、すでに洗練された女旅人として王国内へ溶け込んでいた。
『性別相反』によって精神から骨格に至るまで反転させた女性体。そこに重なるのは、彼女の潜入を絶対的なものとする術式――『存在擬態』。
自身の魔力波形、体温、呼吸数、果ては醸し出す匂いや存在感そのものを周囲の空間色彩へと完全に同期させ、背景の一部として認識させる透過・擬態技術である。街を行き交う人々は誰一人として、すぐ傍を通り抜ける彼女に微かな違和感すら抱くことはない。
彼女が最初に足を運んだのは、事件の原点――アデルハルト領の街外れに佇む、一軒の古びた書具店であった。
数年の歳月が経過した現場。王国騎士団の調査記録では「争った形跡もなく突如として姿を消した不審失踪」と片付けられていた場所である。
店内の壁にそっと細い指先を滑らせると、『影』の瞳の奥で血統技法《久遠律》・『鏡面剥離術』の波形が微かに揺らめいた。
時間が凍りついた空間から、過去の残留魔術の層を薄皮を剥ぐように解体していく。
(……なるほどね。暴れた形跡がないのも当然だわ)
『影』の視界に浮かび上がったのは、瞬時に周囲の空間ごと対象を隔離・遮断する、極めて高度な高密度魔導封印陣の残光。並の魔導士では知知覚すら叶わない「空間の縫い目」に刻まれた微細な歪みであった。
(『神聖術式監査局』配下――下位組織『黒曜の検体』の手口……。事故でも無差別な誘拐でもなく、王国の暗部機構が仕掛けた計画的な拉致。狙いは最初から、あの少年一人)
さらに『影』は、歪みの奥底から連れ去られた少年――カイト・フォン・アデルハルトの固有魔力周波数を完全に割り出し、その波形パターンを記憶に焼き付けた。
事象の真相を即座に手繰り寄せた『影』は、ここで下位組織の末端を追う必要はないと踏んだ。これほどの国家機密に関わる特異な被検体であれば、最終的に身柄が収容されるのは王都の地下深層に隠された『神聖術式監査局』の本局・極秘施設に違いなかった。
姿を消したまま風のように立ち去った『影』は、そのまま一気に王都へと潜入を果たした。
◇ ◇ ◇
狙うは王都地下深層に巣食う『神聖術式監査局』の極秘中枢施設。
幾重もの物理的・魔導的遮断をすり抜け、施設外郭を覆う監視術式網へとアプローチを試みたその瞬間――『影』は思わず薄い唇を吊り上げた。
(……あら?)
厳重を極めるはずの監視ネットワークの深層に、目に見えぬほど微小な「ノイズ」が不自然な周期で混入している。
外部からの侵入形跡ではない。内部の核たる根幹サーバー(Root Server)側から、システムを少しずつ侵蝕し、コードを書き換えようとする荒々しくも緻密なクラッキングの痕跡。
その微細なクラッキング波形を『鏡面剥離術』で深く解析した『影』は、小さく息を飲んだ。
先ほど書具店の空間から割り出したカイトの残留魔力波形と、システムを内側から侵蝕しているノイズの周波数が完全に一致していたのだ。さらにそのノイズの発信源は、施設最深部に位置する「最重要被検体隔離房」を一直線に指し示していた。
「捕らわれの身でありながら、内側からシステムを暴いている……? ふふ、ただ大人しく救出を待つだけの少年ではないようね」
幼きリアの理知的な策謀、そして暗部の中で蠢く「異物」カイト。
すべての糸が交錯する最深部へ向け、姿なき特務暗査員は静かにその身を沈めていった。




