第71話 白銀の塔の特務、動き出す影
雲海を突き抜けるように聳え立つ、白銀の魔導合金と高純度結晶ガラスで組み上げられた幾何学的な超高層タワー――。
大国の首都中央に鎮座するその建造物は、表向きは外交や情報管理を統括する国家直属の最高峰公的機関として、圧倒的な気品と透明感を放ってそびえ立っている。
そして、その最上階――眼下に広がる首都の夜景を一望する洗練された空間。そここそが、国家最暗部たる『第0特務室』の本拠地内に設けられた、席次第1位『影』専用のプライベートバーであった。
カウンターの向こう側から、専属のメイドが慣れた手つきでシェイクした一杯のグラスを静かに差し出した。
静謐な室内に、氷が繊細な音を奏でる。
「お待たせいたしました、――様。お好みの『トパーズ・ヴェール』でございます」
深々と革張りソファに腰かけた人物は、言葉を発することなく静かに首肯し、グラスを受け取った。
置かれたのは、極上の熟成酒と魔導香草が織りなす、芳醇でスモーキーな香りを漂わせる名杯『トパーズ・ヴェール』。結晶ガラス越しに夜景の光を吸い込み、宵闇を溶かしたような深いトパーズ色の輝きがグラスの底でゆるやかに揺らめいている。
『影』はその深黄の液体を静かに嗜むと、卓上に広げられた一通の格式高い羊皮紙へと視線を落とした。
そこに刻まれていたのは、流麗でありながら確かな意志を宿した文字であった。
『――隣国が誇る国家直属の最高峰情報機関、第0特務室(セクション・ゼロ / Sec.0)へ。
我が名はリア・フォン・シルフィード。王国のシルフィード公爵家が名を以て、アデルハルト伯爵家より全権の委任を受け、本書面を認めます。
四年前、アデルハルト領内の書具店にて突如として不審な失踪を遂げたアデルハルト伯爵家長男、カイト・フォン・アデルハルトの捜索、ならびにその身の単独奪還をここに正式に要請いたします。
本依頼の履行に伴い、アデルハルト伯爵家の正式なる委任状、ならびにシルフィード公爵家の正式な国際決済ラインを通じた所定の報酬を添えさせていただきます。我が国の公式機関すら手出しできぬ領域へ介入し得る、貴機関の『真の手札』の出撃を頼み入る――』
羊皮紙を滑る目線を止め、『影』は小さく息を漏らした。
添付された資金ログ、および両家の連名による委任状に一切の偽りはない。正当な国際決済を通じた、法的にも文句の付けようがない圧倒的な対価。
(……なるほど。表の権力や不調法な闇ルートに頼らず、正当な国家間決済の筋を通してきたか。アデルハルト伯爵家の切なる祈りと誇りを立てつつ、大国の公的機関たる私を『正当な手札』として完璧にお膳立てしてみせる……。幼き公爵令嬢の手腕にしては、上出来すぎる筋の通し方だ)
カクテルのグラスを卓上へ静かに置くと、フードの奥から、気品を湛えた深みのある低音が静かに響いた。
「……受諾しよう、姿なきお姫様。その覚悟と気概に免じてな」
『影』の身体を覆う空間が微かに歪み、その本質能力――血統技法《久遠律》・『鏡面剥離術』の波形が静かに起動を始めた。
内包される派生技術――『性別相反』。
それは声帯の伸縮や骨格・体格の調整にとどまらず、思考の優先順位までも男性的なロジックから女性的な直感・共感へと瞬時に切り替え、精神から肉体まで完璧な「別の性」へと反転させる極限の変幻術式である。
同時に『存在擬態』が噛み合い、呼吸数や匂い、魔力波形に至るまでが世界の色彩ごと書き換えられていく。
先ほどまでの低音は嘘のように消え去り、フードの奥から鳴り響いたのは、凛とした気品と透明感を纏う、澄み渡る高音であった。
「その『カイト』という少年……王国のどれほど深い暗部の底に隠されていようと、私の『鏡面剥離術』で暴き出して見せるわ」
姿も気配も色彩の裏側へと溶け込み、その存在は音もなく消滅した。
見送るメイドは胸元にそっと手を当て、深く優美なお辞儀を捧げる。
「どうかお気をつけていってらっしゃいませ、――様」
幼きリアの理知的な手腕と、アデルハルト伯爵家の執念が動かした大国の最高機関。
姿なき最強の特務暗査員『影』が、王国の深部に隠されたカイトを暴き出すため、静かに国境を越えて飛び立ったのだった。




