第69話 氷華の少女と、莫大なる監査
――カイトの手がかりが途絶えてから、三度目の冬が来ていた。
門をくぐり抜ければ、かつて「呪われた隔離部屋」と呼ばれた影は微塵もない。
透き通る結晶魔導ガラスから冬の澄んだ光がやわらかく降り注ぎ、高度に組み上げられた魔導陣は、館全体を春の陽だまりのような温もりで包み込んでいる。
廊下を渡る風には清冽な氷華の香りが微かに舞い、磨き上げられた黒銀の床石は、静謐なる聖堂の回廊を思わせる厳かな光沢を放っていた。
そこはまさに、幼き聖女が自らの才覚と執念で作り上げた影の城砦――シルフィード公爵家西別邸だった。
冬の静寂が降り積もる、朝のはじまり。
かつて五歳のリアが着ていた愛らしいドレスはとうに小さくなり、八歳となった彼女の背丈に合わせた落ち着いた仕立てのものが、西別邸のクローゼットに並んでいる。
書斎に置かれた大型の魔導計算盤が、カタカタと低い音を立てて結果を打ち出した。
「――リア様、ご指示通りヘンゼル財務官補佐に作成させた今期の予算算定シートと、オズワルド技師による『氷華回路』の最新観測データが揃いました」
お茶を差し出しながら報告を行ったのは、護衛侍女のセレスだ。
その横では、公爵家本館の出世争いに敗れ西別邸に回されてきた財務官補佐のヘンゼルが、緊張した面持ちで深々と頭を下げていた。最初は「幼い令嬢の遊びに付き合わされている」と思っていた彼だったが、リアが提示した無駄のない算定ロジックと財務構造に圧倒され、今や彼女の知性に心服している。
「ご苦労様、ヘンゼル。本館の財務局が文句のつけようがない完璧な書式ね。これなら今月の『特別研究費』の増額申請も一発で通るわ」
リアが卓上の書類に目を通しながら淡々と告げると、ヘンゼルは誇らしげに目を輝かせた。
「ありがたき幸せにございます、リア様! リア様のお考えになる資金運用の骨子があまりに完璧なため、私はそれを公爵家の公式フォーマットに落とし込むだけで済んでおります」
「ふふ、謙遜しないで。あなたが本館の癖を知り尽くしているからこそ、怪しまれずに予算を引けるのよ。……調達官のカトラ、例の件は?」
リアが視線を送ると、部屋の壁側に控えていたベテラン侍女のカトラが、サバサバとした笑みを浮かべて一歩前へ出た。
「はい、リア様。お任せください。ヘンゼル様が引いてくださった研究費の一部は、私が馴染みの商会を経由して綺麗に資金枠を調整してございます。アデルハルト伯爵領への極秘の援助資金も、本館の手続き上、何ら問題のない形で無事に手配を終えました」
リアは静かに深く頷いた。
父ヴァルデマーから手に入れた「特別アクセス文様鍵」と西別邸の指揮権を利用し、リアはこの数年で着々と「自分専用の組織」を構築していた。本館で冷遇されていた優秀な人材の手を取り、適材適所に配置することで、完璧な成果と引き換えに公爵家から莫大な予算と研究手当を正当に引き出す仕組みを作り上げたのだ。
大人たちは、リアが圧倒的な成果を出すたびに「シルフィードの血が覚醒した」「奇跡の神童だ」と勝手に歓喜し、喜んで新たな投資を惜しまなかった。父ヴァルデマーもまた、愛娘の目覚ましい成長と才能を心から誇りに思い、自慢の娘として後押ししてくれている。その豊かな資金と特権の一部が、裏で「行方不明の少年を探し出すための壮大な下準備」にも充てられているとは思いも寄らずに。
人員が退室し、護衛侍女のセレスと二人きりになると、リアは小さなため息をついた。
「……アデルハルト伯爵からの最新の連絡はどうなっているかしら」
「は……。お送りした資金を活用して捜索網を広げておられますが、元よりコネも裏の手札もお持ちでない地方伯爵家ゆえ、表の調査手法ではそろそろ限界のようです。神聖騎士団の公式捜索も打ち切られ、捜索は完全に手詰まりとなっております」
セレスの悲痛な報告にも、リアの表情は崩れなかった。それすらも最初から想定内だったからだ。お金を送るだけではカイトには届かない。辺境の伯爵家には動かせない「国家の闇に切り込める強力な手札」が不可欠なのだ。
リアは胸元にそっと手を当てた。
ドレスの内に隠された、あの無骨な『石の護符』の硬い感触が、手のひらを通じて確かな温もりを伝えてくる。雪の結晶を溶かし込んだような透明感のある白銀の髪が流れ、衣服の下の宝物を慈しむように守っていた。
(どれだけ『氷の聖女』として持て囃されようと、私を私たらしめているのは、この石と……カイトが繋いでくれた絆だけ)
「ただ資金を送るだけじゃ駄目ね。アデルハルト伯爵には金だけでなく、私が掴んだ情報と『本物の手札』を渡さないと……」
吸い込まれそうなほど澄んだ氷藍色の大きな瞳に、冷徹な計算と強い決意が宿る。
「もっと成果を出して組織と資金を大きくし、公爵家の持つ特権的な情報網を完全に手に入れるわ。それを使って、王国の闇を動かせる本物の追跡者を……私が直接手配して見せる」
かつて泣きじゃくるだけだった少女は、父の愛情と自らの才覚、そして頼れる従属者たちを背負い、カイトを取り戻すための「影の指揮官」へと着実に階段を駆け上がっていたのだった。




