第67話 湯気の向こうの氷華と、余白のお茶会
レオポルドが西別邸に通い始めてから、あっという間に一年の歳月が流れていた。
西別邸の応接間には、焼きたての小菓子の甘い香りと、セレスが丁寧に淹れたハーブティーの温かな湯気が漂っている。冬の澄んだ陽光が差し込む卓上で、七歳になったリアは、洗練された優雅な所作でティーカップを傾けていた。
「……ふう。リア様、いまさらですが、この老骨があなた様に教えられることは、もう何ひとつ残っておりませんな」
レオポルドは愛用の魔導杖を椅子の脇に立てかけ、温かな茶を一口すすると、どこか呆れたような、けれど深い誇らしさを込めた溜め息を吐いた。
卓上の端では、リアが気晴らし半分に咲かせた氷の小花が、繊細な輝きを放っている。本館の熟練魔導師でさえ入念な詠唱を要する『氷華・第三階梯』の応用術式だ。それをリアは、紅茶の熱気を指先で微調整して飲み頃にするついでに、息を吸うかのような自然さで無詠唱のまま組み上げてみせたのだ。
「そんなことはございません、レオポルド先生。先生が基礎から丁寧に導いてくださったからこそ、私は迷わずにいられるのです」
「謙虚なのは結構ですがな。わずか一年の間に、公爵家に伝わる高度術式の全体系を完全に呑み込んでしまわれるとは……」
レオポルドは苦笑を漏らしながら、杖の頭にそっと手を重ねた。目の前の少女は、難解な理論をただ暗記しているのではない。魔法の構造そのものをどこまでも透徹した眼差しで見抜き、摩擦や無駄を一切生ませずに魔力を通してみせる。かつての暴走の影など微塵もなく、その立ち振る舞いには圧倒的な余裕すら漂っていた。
「神聖術式監査局の連中は、この西別邸で、公爵家の歴史すら覆すほど美しく底知れぬ『才能』が静かに花開いているとは、夢にも思っていないでしょうな」
「……ふふ。先生、あまり滅多なことを仰ると、壁に耳がございますよ」
リアは柔らかく微笑み、サクッと軽やかな音を立てて小菓子を口に運んだ。穏やかなお茶の時間に漂うのは、過酷な鍛錬の気配を感じさせない、至福の静けさだった。
◇ ◇ ◇
「——ではリア様、また来週」
「ええ、お気をつけて」
レオポルドが傍らの魔導杖を手に取り、ゆっくりと立ち上がる。重い木製扉がパタンと閉まり、石畳の廊下に遠ざかっていく杖の打音が完全に途絶えた。
足音が消えた瞬間、さっきまで部屋を満たしていた焼き菓子の甘い匂いや、ハーブティーの温かな湯気が、潮が引くように薄れていった。代わりに窓の僅かな隙間からすっと入ってきたのは、冬の冷たい空気と、乾いた土の匂いだった。
部屋の温度がスーッと下がっていく。
リアは一人、静まり返った部屋のなかでゆっくりと息を吐いた。先ほどまで浮かべていた公爵令嬢としての柔らかな笑顔は消え、部屋に落ちる夕暮れの影の中に佇んでいる。
ドレスの胸元にそっと手を差し入れ、固い『石の護符』を取り出した。
爪先で触れる石の表面は、少しざらついていて、ひんやりと冷たい。あの日、カイトが自分の手で懸命に削って作ってくれた、世界にひとつしかない手触りだ。両手で優しく包み込むと、冷たかった石は、リア自身の体温を吸ってじんわりと温かさを持ち始めていく。
カイトの想いが詰まった大切な石を、そっと胸元へ抱きしめる。
静かな部屋に、白く小さな吐息がひとつ揺れて消えた。
冷えていく部屋の中で、石の温もりだけを握りしめるリアの瞳。そこには、寂しさを静かに受け止めながらも、まっすぐ前だけを見つめる確かな光が宿っていた。




