第66話 西別邸の芽吹きと、氷華への一歩
冬の冷気が西別邸の重い木製扉を凍てつかせる朝、本館からの使者が一人の人物を連れてやってきた。
公爵家直属の老魔導士、レオポルド。使い込まれた漆黒の魔導杖を携え、公爵家に代々仕えて数々の優れた氷華魔導師を育て上げてきた厳格な家庭教師だ。父であるシルフィード公爵の命を受け、リアに高度魔導理論と「氷華術式」の神髄を叩き込むために西別邸へ派遣されてきたのだった。
石畳の廊下に、コツン、コツンと木製杖の重い打音を響かせながら、彼は応接間の前で足を止めた。
「――失礼いたします、リア様」
レオポルドの表情は固い。かつて魔力暴走を起こして隔離され、公爵閣下からも冷遇されていると噂される幼子だ。いくら暴走が収まったとはいえ、分別もない子供のお守りをさせられるのではないかと、内心では期待と懸念が半々だった。
だが、応接間に足を踏み入れた瞬間、老魔導士の懸念は吹き飛んだ。
「ようこそおいでくださいました、レオポルド先生。公爵家を支える高潔な師より学びを得られますこと、心より感謝申し上げます」
綺麗な姿勢で立ち上がり、完璧な作法で一礼してみせたのは、深く美しい漆黒のドレスを身に纏った六歳のリアだった。その立ち振る舞いには一切の無駄がなく、言葉遣いも立ち姿も、王都の最高級のサロンにそのまま出せるほど洗練されていた。
(……ほう。これが『出来損ない』と隔離されていた姫君か……?)
レオポルドは思わず目を見張った。携えた杖の柄に両手を重ね、威厳ある眼差しで少女を見つめる。父親の手記から真実を知り、愛されている確信を得たリアの佇まいには、恐れや卑屈さは微塵もない。かといって威張ることもなく、相手への深い敬意と品格に満ち溢れていた。
「……丁寧なご挨拶、恐縮にございます。……では早速ですが、本日より魔導の基礎理論、ならびに我がシルフィード家に伝わる『氷華術式』の講義を開始いたします」
レオポルドは杖を傍らに立てかけると、深々と椅子に腰を下ろした。
講義が始まると、レオポルドはリアの持つ「本当の聡明さ」を肌で知ることとなった。
リアは決して、難解な魔法の構造を最初から見抜くような奇抜な天才ではない。魔導の知識に関しては、まだ真っ白な素人にすぎなかった。だが、彼女は基礎的な魔導書の概念や用語を、驚くほど素直に、そして真摯に吸収していった。
「先生、いま仰った『体内の魔力脈の循環』ですが、呼吸と合わせることでより安定させるということは可能でしょうか?」
教えられた知識をただ暗記するのではなく、相手の話を深く聞き、相手に敬意を払いながら、的確で思いやりのある質問を投げかける。その受け答えの心地よさとコミュニケーション能力の高さに、老講師は気が付けば熱を帯びて講義に没頭していた。
(何という素直さ、そして何という凛とした聡明さか……。教え甲斐があるどころの話ではない)
『石の護符』の存在のおかげで体内の魔力が安定しているリアは、かつてのように過剰な魔力に振り回されることなく、純粋な「魔法の扱い方」を一つひとつ丁寧になぞり、覚えていくことができる。
魔力操作の手順をひとつ成功させるたび、リアは「ありがとうございます、先生のおかげで感覚が掴めました」と心からの感謝を込めて微笑む。その愛らしくも気品ある姿に、気難しさで知られた老魔導士の目元も自然と緩んでいた。
「素晴らしい筋でございます、リア様。この調子であれば、公爵閣下のご期待に沿う立派な氷華魔導師となられる日もそう遠くはございません」
そう言って立ち上がると、レオポルドは傍らの杖を静かに取り、満足そうに一礼した。
「ありがとうございます、レオポルド先生」
講義が終わり、杖の音を響かせながら去っていく講師を見送ったあとの静かな自室。
リアはドレスの胸元にそっと手を当て、カイトの『石の護符』の温もりを感じ取った。
(父上が与えてくれたこの環境で、先生から魔法の基礎をしっかり学んで強くなる……。それが、今の私にできる一番のこと)
魔法の知識はまだ始まったばかりだ。けれど、父が隠し守ってくれたこの場所で、正当な教育をしっかりとおさめ、立派な魔導師へと成長していく。いつかカイトの元へたどり着き、彼を救い出すその日のために、リアは確かな一歩を歩み始めたのだった。




