第63.1話 色褪せた壁面と、赤く腫れた指先
カイトが姿を消してから、屋敷の景色は緩やかに、しかし着実にその彩りを失っていった。
かつてアデルハルト伯爵邸の廊下や食堂にあったわずかな装飾品は、ことごとく姿を消している。壁には調度品が飾られていた箇所の壁紙だけが、日焼けを残して虚しく四角く白く浮かび上がっていた。
「……奥様。本日のスープでございます」
マーサが静かに置いた深皿には、熱い湯気を立てる根菜と角鹿の端肉のスープが入っていた。筋が多く固い端肉を細かく叩き、かぶに似た根菜とともに煮込んだものだ。それでも、香ばしい野生肉の脂の匂いと、臭みを消す爽やかなハーブの香りが立ち上り、食欲をそそる温かな滋味としてスープ全体に溶け込んでいた。
「ありがとう、マーサ。ミレイを寝かせたら、いただきますね」
ゆりかごの中で無邪気にすやすやと寝息を立てる一歳のミレイの頭を撫でながら、エレナは掠れた声で微笑む。その痩せた肩と、色褪せた衣服を見つめながら、マーサは深々と頭を下げて厨房へと引き返した。
◇ ◇ ◇
深夜。屋敷全体が冷たい静寂に包まれ、エレナとミレイが眠りについた頃、マーサの本当の"戦い"が始まる。
誰の気配もない静まり返った自室。窓の外からは凍てつく夜風がガラスを細かく揺らす音がかすかに響き、部屋の中には頼りないランプの灯火がぽつんと揺れている。冷え切った空気が肺の奥まで鋭く突き刺さるような孤独な空間で、マーサは長袖の裾を固く捲り上げた。
露出した彼女の両手は、かつてカイトに不器用な治癒魔法を教えた頃の柔らかさを完全に失っていた。指先は赤く膨れ上がり、皮膚は乾いた痛々しい亀裂が幾重にも走っている。そこへ、錆びた金属と酸のツンと鼻を突く異臭がわずかに漂う試薬の小瓶が近づけられる。
マーサが毎夜密かに行っていたのは、領地にやってくる怪しい商人から請け負った「低級魔導具の部品洗浄と試薬の精製作業」だった。
微細な魔導回路の汚れを落とし、薬品の反応を手先の触感で直接確かめる精密な作業は、手袋を嵌めていては感覚が鈍り失敗してしまう。ましてや強力な薬品は革や布の手袋すら溶かしてしまうため、マーサは素手を危険な薬液に晒し続けなければならなかった。
少しでも多くの銅貨を稼ぎ、アルベルトの捜索費の足しにし、エレナと育ち盛りのミレイに最低限の温かい食事と栄養を欠かさせないための、命を削るような夜間労働だった。
「……くっ……」
指先に薬液が染み込み、激痛が走る。
マーサは痛みに唇を噛み締め、声が漏れ出るのを必死に耐えた。
思い出すのは、自分の手を小さな両手で包み込み、「マーサの手、あったかいね」と不器用な生活魔法を見せてくれた少年の笑顔だった。あのかけがえのない日常を守るためなら、自分の手がどれほど荒れ果てようと痛くなどなかった。
夜明け前、内職の道具と薬品を厳重に布で包み、衣裳箱の奥底へと隠す。
腫れ上がった指を隠すように袖を下ろし、マーサは静かに息を整えた。
冷え切った日常の中で、彼女の献身は誰にも知られることなく、ただ淡々と、しかし確かな灯火となってこの屋敷を支え続けていた。




