第62話 ぬかるみの靴底と、冷めたスープ
アルベルトが履き潰した革靴は、すでに三足目になっていた。
雨が上がったあとも、アデルハルト領の森は不気味な湿気とぬかるみで満ちている。アルベルトは泥に足をとられながら、手がかりすらない森の奥へと自ら足を踏み入れていた。かつては整えられていた髭は伸び放題となり、頬はげっそりと削げ落ちている。
「……閣下、一度お屋敷へお戻りください。今夜はこれ以上探しても視界が利きません」
従者の制止を、アルベルトは弱々しく首を振って拒んだ。
「……手がかりが、何か一つでもあるはずだ。あの子が急に消えるはずがない。どこかに……足跡くらいはあるはずなんだ……!」
執念だけで身体を動かしている父の背中を、陰から冷ややかな視線で見つめる者たちがいた。神聖術式監査局から派遣された「監視員」たちだ。彼らは手助けをするわけでもなく、ただアルベルトが国家の禁忌に触れないか、不審な動きを見せないかを監視するためだけに領地周辺に居座り続けていた。
金も力も、周囲の支援すらない。領民のパンを奪うわけにはいかない以上、アルベルトができるのは、こうして己の肉体を削って泥を這うことだけだった。
一方、アデルハルト伯爵邸の食堂。
暖炉の火が静かに爆ぜる部屋で、母エレナは胸元に抱いた赤ん坊――幼い妹のミレイを静かにあやしていた。
「……奥様。今夜のスープでございます」
マーサが静かに置いた深皿には、湯気を立てるハーブスープが入っていた。だが、エレナの視線は手元の小さな命と、その向こうにあるカイトが座っていたはずの小さな空席を行き来していた。
腕の中のミレイは、何も知らずにすやすやと温かな吐息を立てている。その小さな重みと仄かなミルクの匂いは、長男を失ったエレナの心を辛うじて繋ぎ止める救いであると同時に、あの日ここにいたはずのカイトの不在をいっそう残酷に際立たせていた。
「……ありがとう、マーサ。ミレイが寝ついたら……いただきますね」
「はい……」
マーサは頭を下げ、厨房へ戻ると同時に、溢れ出る涙をエプロンの端で強く拭った。
毎日、温かいスープを作る。だが、誰も口をつけないまま冷え切っていく。その冷めたスープを下げる瞬間が、マーサにとって何よりも胸を締め付けられる拷問だった。かつてカイトに不器用な治癒魔法を笑い合いながら教えたあの温かな記憶が、今の静寂をより残酷に際立たせていた。
同じ頃、シルフィード公爵邸の庭園の隅。
ドレスの裾を泥で汚したリアが、膝を折ってカイトの『石の護符』を握りしめていた。
「リア様、お顔を拭いてください……」
セレスが差し出すハンカチを拒み、リアは石を胸に抱きしめたまま低く呟く。
「……セレス。私、もっと強くならなきゃダメなの。公爵家の中で誰も無視できない存在にならなきゃ、カイトを探す手伝いすらさせてもらえない……!」
ボロボロになりながら泥を追う父。
生まれたばかりの命を抱きながら、届かぬ祈りを抱え続ける母とマーサ。
そして、自分の無力さに血の涙を流しながら強さを求める幼馴染。




