第61.1話 暗闇に芽吹く小さな光
冷たい雨が窓を叩く深夜、アデルハルト伯爵邸の寝室には、あえかな魔導ランプの灯火と荒い呼吸音が満ちていた。
息子の失踪から数ヶ月。絶望の泥沼の中で、エレナのお腹の中にいたもう一つの小さな命は、ひたすら静かに時を待っていた。汗に濡れた前髪が額に張り付き、陣痛に耐えるエレナの手を、アルベルトは押し潰すほどの力で握りしめていた。その手は冷たく、連日の泥まみれの捜索で荒れ果てていたが、伝わる熱だけは切ないほど必死だった。
「……助産術士様、お湯が沸きました!」
マーサが震える手で湯気の立つ金たらいを運び込む。カイトが消えて以来、笑い声の途絶えていた屋敷に、息の詰まるような緊張が奔っていた。
枕元に控えた年老いた女性は、単なる介助者ではない。神聖王国が認可する「助産術士ギルド」の厳格な試練を突破した、正真正銘の助産術士だ。命を扱うプロフェッショナルとして人々から深い敬意を集める彼女は、生活魔法で室内の温度と清潔を維持しながら、しわの刻まれた両手をエレナの腹部にそっと添えた。
「——温かなる生命の源泉よ、母なる器に平穏と力を。痛みを和らげ、新たなる脈動を導きたまえ――『母威の光芒』」
静かで厳かな言葉が紡ぎ終えられると同時に、助産術士の手のひらから豊かな金色の光芒が溢れ出す。柔らかく温かな光が波紋のようにエレナの全身を包み込み、身を裂くような痛みを優しく解きほぐしていった。
そして――落雷のような強い陣痛ののち、しんとした静寂を破って、高らかな産声が部屋中に響き渡った。
「生まれた……! 元気な、可愛い女の子です、奥様!」
助産術士の介助をそばで懸命に支えていたマーサが、溢れ出る涙を拭うことも忘れて、歓喜に声を震わせた。
そして助産術士が手際よく産湯につけ、柔らかな布に包んだ赤ん坊をエレナの胸元へと抱かせた。
生まれたばかりの命は、仄かなミルクの匂いと温かな湯気を纏い、真っ赤な顔をして小さく拳を握りしめている。
「あぁ……っ……」
エレナの目から、溢れ出た涙が赤ん坊の頬へとこぼれ落ちた。それは無事に産み落とした安堵の涙であると同時に、胸を刺すような鋭い激痛の涙だった。
腕の中に確かな重みとして存在する、生まれたての我が子。その柔らかい体温を感じれば感じるほど、今この場にいない長男の存在——カイトの冷えてしまったデスクや、二度と戻らない幼い頃の匂いが鮮明に蘇ってしまう。
「……カイト……見て、あなたの妹よ……っ」
かすれた声で呟くエレナの隣で、アルベルトは膝をつき、ごつごつとした大きな指先で赤ん坊の小さな手にそっと触れた。その指を、赤ん坊が小さな力でぎゅっと握り返す。
「……すまない。カイト……お前に、この子を抱かせてやれなくて……」
アルベルトの胸の奥から、押し殺した小さな嗚咽が漏れた。
失意の暗闇のなかで灯った小さな新しい光。だがその光は、カイトというかけがえのない存在を失ったアデルハルト家の傷口を、優しく、そしてどこまでも残酷に浮き彫りにした。
「この子の名は……ミレイ。暗闇に差す、小さな光……」
エレナは愛おしそうに赤ん坊を抱きしめ、静かに目を閉じた。
廊下の向こうにある、時が止まったままの「カイトの部屋」に語りかけるように。
アデルハルト伯爵邸に新しい命が芽吹いたその夜、家族は涙とともに、去っていった長男への愛と、手元に残された小さな命を守り抜く誓いを、静かに胸深く刻み込んだのだった。




