第61話 記録(ログ)なき喪失と祈りのコード
遠く離れたアデルハルト領の屋敷。その一室は、カイトが拉致されてからまるで時が凍りついたかのように、当時のままの姿で残されていた。
メイドの手によってどれほど隅々まで磨き清められても、部屋に満ちる静寂の色は、日数を重ねるごとに重さを増していくようだった。
隙間風が静けさを揺らし、部屋には冷ややかな秋の空気が満ちている。
夕陽が差し込む窓辺からは、干し草と乾いた土の匂いがかすかに漂っていたが、それは部屋の中に漂う「不在の気配」をぬぐい去るほどのものではない。床に置かれた木製の木馬や、綺麗に畳まれた小さなシャツの影が、橙色の光の中で寂しげに長く伸びていた。
母・エレナは、かつて我が子が座っていたチェスクロックの置かれた小さなデスクの前に立ち、震える指先でその表面をそっと撫でた。幾度となく拭き掃除がされているため埃一つないが、指先に伝わるのは氷のように冷めてしまった木肌の感触だけだ。そこにはもう、愛しい我が子の温もりはない。ただ、息子の不在という圧倒的な重みだけが、部屋の空気を重く淀ませていた。
「……カイト。今、あなたはどこで、どうしているの……」
掠れた声で呟きながら、エレナはデスクの引き出しをそっと開けた。
中に入っていたのは、幼いカイトが愛用していた古い魔導筆と、使いかけの羊皮紙のノートだった。引き出しを開けた瞬間、古いインクと羊皮紙特有の酸っぱい匂いがふわりと鼻腔をくすぐる。
ページをめくると、懸命に描き殴られた複雑な魔導回路の図面や、見たこともない奇妙な記号の羅列が並んでいた。当時、周囲の大人たちは「変わった絵を描くものだ」と微笑ましかったが、今見ればそれは、幼い少年の脳内にあった底知れぬ理性の断片だった。
その背後で、父・アルベルトが重い足音を立てて部屋に入ってきた。
扉が開くのと同時に、彼が纏ってきた外の刺すような冷気と、調査官たちが残していった薬品と鉄の匂いが微かに部屋へと流れ込む。アルベルトの表情は以前よりも深く刻まれた皺と、決して癒えることのない無力感の影に覆われていた。彼は無言で妻の肩に手を置き、冷え切ったその身体をしっかりと支えた。
「……エレナ。監査局の調査官が、また領地周辺の監視網を強化していった。あの子の痕跡は、どこにも……見つからない」
絞り出すような夫の声に、エレナは溢れ出る涙を拭うこともせず、ただ我が子のシャツを胸元に強く押し当てた。生地に残されたわずかな洗濯の匂いと、かつての我が子の匂いを手繰り寄せるように。
「分かっています……。でも、私の胸の奥で、あの子がまだ生きているのを感じるんです。……あの子は、きっとどこかで、私たちの知らない戦いをしているんだわ」
冷たい風が窓の隙間からひゅっと音を立てて吹き込み、部屋の壁に飾られたドライフラワーの束をかすかに揺らす。カサリ、と乾いた音が静寂に落ちた。
王都の深部で、組織を内側から崩壊させるために冷徹な意思で戦い続けるカイトとは遠く離れた場所で、残された両親もまた、終わらない喪失と祈りの日々の中でその不在を耐え抜いていた。
――運命の歯車が噛み合うその日まで、家族を繋ぐ絆の糸は、どれほど引き裂かれようとも決して切れることはなかった。




