第60話 冷たい雨と、握りしめた石
雨が泥を打ちつける音が、アデルハルト伯爵邸の静寂を容赦なく切り裂いていた。
カイトが姿を消してから、わずか数日。領主執務室の灯火は一度も消えていない。
アルベルトは、領主として領民のための公金に手を付けることを固く自らに禁じていた。元より貧しい小領地だ。民の明日のパンを削って息子の捜索に充てるわけにはいかない。伯爵家個人のなけなしの私財を掻き集め、自ら馬を駆ってぬかるむ森や街道を泥まみれになりながら探し回るしかなかった。雨と汗に濡れ、着替えすら拒んで地図を睨みつける父の背中は、たった数日で痛々しいほど痩せこけていた。
カイトの部屋では、母エレナが残された小さな着替えを抱きしめ、息子の温もりを探すように声を押し殺して泣き伏していた。
「あの子の匂いが……まだ、こんなに残っているのに……」
メイドのマーサは、震える手で淹れ直したハーブティーを卓に置き、エレナの肩をそっと抱きしめた。かつてカイトに不器用な治癒魔法を教えて笑い合った、あの陽だまりのような日常が嘘のように、屋敷の空気は冷たく凍りついていた。マーサもまた、冷めきっていくスープを見るたび、胸を締め付けられるような涙を耐えていた。
◇ ◇ ◇
一方、シルフィード公爵家の一角。
幼いリアは、カイトから手渡された不格好な『石の護符』を、爪が白くなるほど強く握り締めていた。
この無骨な石が、リアの規格外な魔力を制御し押し殺すための特殊な術式塊であることなど、今のリアは知る由もない。ただ、カイトが自分のために作ってくれた世界で一つの宝物として、溢れる涙を石に落としながら、祈るように胸へと押し当てていた。
「リア様、これ以上のお出かけは……公爵様に見つかればお叱りを受けます」
「嫌! セレス、お願い……カイトがどこかで冷たい雨に打たれているかもしれないの!」
公爵家はまだ動いてくれない。表向きは一伯爵家の幼子の行方不明に過ぎず、国家の重鎮である公爵家が公的な権力や巨額の資金を投入する正当な口実がなかったからだ。リアの護衛侍女であるセレスは、悔しさに唇を噛み締め、幼い主人の前に静かに膝をついた。
「……わかりました。公爵家のお力は使えませんが、私個人の剣にかけて。公爵様には内密で、私と二人だけで探せる限りを探しましょう」
金も、国家の支援も、何一つ手がかりすらない。
絶望という名の冷たい暗闇の中、第三者に頼る術も持たぬ家族と仲間たちは、ただ己の愛と執念だけを頼りに、泥を這うような自力の捜索へと足を踏み出したのだった。




