第50話 座標の歪みと、二人の天才
最高位教官専用となる特務訓練場。漆黒の魔導鉱石に囲まれた空間は、冷え切った電子機器の心臓部のように静まり返っていた。
青白いルーンの光が脈打つ床の上に、五歳の小さな体躯を持つカイトと、長身の最高位教官ゼノン・フォン・グレイスが対峙している。
(……初日の基本スペックの測定で、俺が空間歪曲のコードに割り込んだことへの検証か)
カイトの脳内では、超高速の演算領域がフル稼働していた。
あの時、ゼノンが放った空間歪曲魔導のベースとなる数理アルゴリズムはすでに解析済みだ。空間の密度を書き換え、物理法則を一時的に無効化するその術式は、ゼノンの右腕に刻まれた魔導演算用の無骨な金属義手によって補佐されている。
通常の魔導師であれば「神業」と片付ける現象も、カイトの目には「古い基盤の無理な書き換えパッチ」にしか映らない。
「……基礎スペックの確認は前回で終わったはずだが?」
カイトはあえてあどけなさを剥ぎ取った冷徹な漆黒の瞳を向け、ゼノンを見据えた。
ゼノンは感情の欠落した琥珀色の瞳を細め、銀灰色の髪を揺らす。
(――アーク・コード呼出。空間歪曲魔導ライブラリ・『交戦転移』)
直後、青白いルーンが激しく明滅し、バチィッという空間に不連続音を残してゼノンの姿がカイトの背後へと消える。静寂な訓練場に、重厚な軍靴の音が冷たく響く。
「甘いな、カイト。お前が示したのは、ただの『アンチコードの構築』にすぎない」
ゼノンの薄い唇が、冷酷な笑みをわずかに形作った。
「この世界の理を本当に書き換えるためには、表面的な干渉ではなく、根幹の座標軸そのものを掌握しなければならない。――見せてみろ。お前のその『コア』が、本当に対象を書き換えられるのかどうかをな」
次の瞬間、ゼノンが魔導演算義手を大きく掲げた。
(――アーク・コード呼出。空間歪曲魔導ライブラリ・『全方位空間圧縮』)
訓練場全体の空間データが凄まじい勢いで書き換わり、重力波と空間の捻じれがカイトを襲った。
周囲の空気がガラスのようにひび割れ、光が屈折する。空間そのものがカイトを押し潰そうと収束していく。
(――っ、重い……!)
物理的な重力ではない。存在の座標そのものを「エラー」として抹消しようとする、監査局の最高峰のシステム化魔法だ。
膝が折れかけ、肺の空気が無理やり押し出される。だが、カイトの意識は微塵も揺らがなかった。
(なるほど……そうやって空間のアンカーポイントを固定しているのか。義手のルーンの点滅周期は『0.04秒』。座標の書き換え先は俺の肉体ではなく、俺の周囲1メートルの魔力フィールドそのものだ)
カイトは胸の奥で重く脈打つ『黒曜神経核』の出力を最大値まで引き上げた。
全身の神経回路を焼き切るような痛みを無視し、抽出した魔力パケットを極限まで細分化する。ゼノンが放った空間歪曲のアルゴリズムに、自らのハッキングコードを完全に同調させていく。
――バチッ、と空気中で微小な電磁ノイズが弾けた。
カイトの周囲を取り囲んでいた歪みのグリッドが、一瞬、カイトの意図した通りにカチリと音を立てて「正常化」した。
いや、それだけではない。カイトの足元の空間座標が、ゼノンの支配領域から切り離され、わずか数センチだけ「別の空間」へとすり替わった。
空間跳躍(転移)の微小な予兆。
ゼノンの術式構造を完全にトレースし、その場で模倣・再構築した瞬間だった。
「……なっ!?」
ゼノンの冷徹な仮面が、初めて完全に砕け散った。
琥珀色の瞳が大きく見開かれ、彼の義手から放たれていたルーンの光が激しく明滅する。
(馬鹿な……! 俺の空間歪曲を、その場で逆ハックして相殺しただけでなく、自身の転移座標のアンカーとして利用しただと……!? まだ五歳のガキが、この俺の演算領域に割り込んできたというのか……!)
ゼノンは反射的に義手を下ろし、空間の歪みを強制終了させた。
訓練場に重く立ち込めていた圧力が消え、静寂が戻る。カイトは荒い息を小さく吐き出しながらも、その場にしっかりと両足で立ち、ゼノンを冷ややかに見返した。
「――ふう。これで、俺の『コード』が本物だという証明になったか、教官」
幼い少年の唇に浮かんだのは、かつて大企業や国家のメインフレームを裏から支配していた天才エンジニアの、不敵な笑みそのものだった。
ゼノンは静かに息を呑み、そして、その口元に狂気を孕んだ深い笑みを刻み込む。
「……面白い。最高だ、カイト。お前はただの例外などではない……この腐った世界の根幹を揺るがす、最大の特異点だ」
二人の天才の間で、世界の理を書き換えるための静かで危険な共犯関係が、音を立てて結ばれようとしていた――。




