第47話 ペールブルーの導きと、隠し扉の夜
神聖術式監査局特区ドミトリー。
夜の帳が下り、管理端末のわずかな駆動音と無機質な換気音だけが響く静まり返った廊下を、小さな人影が歩いていた。
セレスティア・ベル――六歳の少女は、頭部を覆う小型の魔導イヤーマフの出力を極限まで絞り、壁に背中を預けながら慎重に一歩一歩を進めていた。
(こわい……みんなの意識や、機械のノイズが頭に響いてくる……)
普段であれば、大勢の気配や監査局の監視端末が発する微弱な電磁ノイズに当てられ、その場でパニックを起こしてうずくまっているところだった。しかし、今夜のセレスティアの足取りは、恐怖に震えながらも不思議な引力に導かれるようにして一定の方向へと向かっていた。
脳内を刺すような嫌な雑音の中に、ほんのわずか――あの夜と同じ、氷のように冷たく、それでいて透き通るような美しい計算の奔流が混じっていたからだ。
それは、他の誰も発することのない、完全に調律された静寂のパルス。
セレスティアは、恐る恐る一つの個室のドアの前にたどり着いた。
そこは、数日前に特区へとやってきたばかりの少年――カイトの部屋だった。
(……ここに、いるの……?)
コン、と幼い指先でドアを叩こうとした、その時だった。
カチッ、と小さな電子音が響き、施錠されているはずのドアのロックが内側から静かに外れた。
「――っ」
セレスティアが息を呑み、わずかにドアを押し開けると、そこにはベッドの上で静かに座っているカイトの姿があった。
カイトは驚いた様子も見せず、ただ透き通るようなアクアブルーの瞳をした少女を静かに見つめ返す。その小さな胸の奥では、『黒曜神経核』の圧倒的な出力を背景に、排水パイプや換気ダクトを経由して築き上げたばかりの裏口の制御パルスが、微かに明滅していた。
(……この子は、俺が給排水ラインをハックして作ったバックドアの微弱な共鳴シグナルを辿ってきたのか?)
カイトは冷徹な演算でセレスティアの状態を分析する。彼女が纏う固有魔導は「情報共鳴」。周囲の魔力や他人の意識を電磁パルスのように受信してしまう特異体質ゆえに、カイトが構築した論理的でノイズのない思考の奔流を、誰よりも敏感にキャッチしてしまったのだ。
「……君は、セレスティア・ベルだな」
カイトが発した穏やかでありながらどこか大人びた声音に、セレスティアは小さくびくりと肩を揺らした。だが、彼女の脳内に常に響いていた不快な雑音は、カイトの近くに来たことで嘘のようにスッと消え去っていた。
セレスティアは恐る恐る部屋の中に足を踏み入れ、震える声で尋ねた。
「……あなたの頭の中、すごく……静か、なのね。あなたは、痛い音を立ててない……」
その言葉に、カイトはわずかに目を細めた。
監査局の監視の目を欺くため、あどけない五歳児の仮面を被り続けているカイトにとって、自身の内側のロジックやハッキングの気配をここまで正確に感じ取られたのは初めてだった。
だが、敵意や恐怖ではなく、ただ「安らぎ」を求めてやってきたこの少女の能力は、カイトの計画において予想外の、しかし極めて有用なピースになり得る。
(……情報共鳴の特異体質。これをうまく利用すれば、ドミトリー内の監視センサーや管理端末の死角を、音もなく先読みできるかもしれない)
カイトは少女の怯えを解くように、柔らかくあどけない笑みを浮かべて見せた。
「外はうるさくて落ち着かないだろ? よかったら、中に入って少し休むといいよ」
その優しく差し伸べられた手と、どこまでも整った静かな思考の波に包まれ、セレスティアは小さく頷いた。
狂気の聖母エリカがメンテナンス・ベイで不気味な管理の網を広げる中、要塞の深部へと牙を立て始めた少年と、その秘密の裏口に導かれた少女の出会いは、静かな共鳴となって運命の歯車を大きく回し始めようとしていた――。




