第46話 聖母の暗躍と、ペールブルーの共鳴
神聖術式監査局の最高峰魔導医療部門『メンテナンス・ベイ』。その深部、一般の訓練生が足を踏み入れることのない無菌の執務室で、主席担当医エリカは静かに微笑んでいた。
目の前の大型魔導モニターには、特区ドミトリーの各部屋から吸い上げられた生体データや、訓練生たちのバイタル波形が幾重にも映し出されている。
「……ふふ。ヴァルター君の細胞修復プロセスは相変わらず見事ね。どれほど破壊しても、激痛に苛まれながら数分かけて執拗に細胞を再構築し、元の美しい形に戻ろうとする……。まるで、私に愛を求めて何度でも壊されに来ているみたいだわ」
エリカは艶やかな黒髪を揺らしながら、手元のカルテに赤いペンで文字を走らせる。その瞳に宿るのは、医療従事者としての倫理ではない。自身の管理下であらゆる生命を解体し、再構築したいという狂気的なまでの「所有欲」だった。彼女にとって、特区の子供たちは人間ではなく、最高の調律を施すべき「精巧なハードウェア」に他ならない。
「さて……次は、あの新入りの『カイト』くんのデータね」
エリカが端末の画面を切り替えようとしたその瞬間、画面の隅で微弱なノイズが走った。
「――あら?」
それはほんの一瞬の、システムが感知するかしないかほどの小さな揺らぎだった。だが、卓越した魔導医であり、数々の検体を診てきたエリカの直感が、それがただのバグではないことを告げる。カイトの胸部に埋め込まれた『黒曜神経核』の出力波形が、規定値の枠内でありながら、あまりにも整然としすぎていたのだ。まるで、こちら側の監視網の目を完璧に計算し尽くしたかのような、美しすぎる偽装。
「……面白いわね。ただの臆病な五歳児だと思っていたけれど……もしかして、私の知らないところで勝手に自分自身の修理を始めているのかしら?」
エリカの唇に、妖艶で危険な笑みが浮かんだ。彼女はさらなる「調律」を加えるため、メンテナンス用の器具トレイを手に取り、夜の回診へと向かうべく優雅に席を立った。
同じ頃、メンテナンス・ベイから少し離れた特区ドミトリーの一角。
薄暗い共有スペースの隅で、セレスティア・ベルは小さな体を丸めて座っていた。
彼女の頭部を覆う小型の魔導イヤーマフは、周囲の人間が発する表層意識や、ドミトリー中を巡る魔導端末の駆動音――いわゆる「ノイズ」を常に遮断するためのものだった。しかし、どれほど性能の良いイヤーマフをつけても、神経を逆撫でするような無機質な雑音はセレスティアの脳内を休ませることなく叩き続ける。
(うるさい……みんなの心が、痛い音を立ててる……)
大勢の気配や、監査局の人間たちが放つ冷徹な思考の波に当てられ、セレスティアは小さく震えながら膝に顔をうずめた。彼女の特技である「情報共鳴」は、周囲の魔力や他人の意識を電磁パルスのように受信してしまうがゆえに、平穏な時間など存在しないも同然だった。
だが――その日の夜、奇妙なことが起きた。
ドミトリーの地下深く、メンテナンス・ベイの方角から、ふと「一切のノイズがない、氷のように冷たく、それでいて透き通るような美しい計算の奔流」が流れてきたのだ。
それは、まるで乱雑に絡まったコードを一糸乱れぬ美しさで組み替えていくような、極めて論理的で静かな思考のパルスだった。監査局の誰もが発するような恐怖や狂気、あるいは欲望の濁った音がそこには一切ない。ただ、圧倒的な知性と冷徹な意志だけが、静寂のなかで歯車を噛み合わせていく。
「……っ」
セレスティアはハッと顔を上げ、青い瞳を大きく見開いた。
頭を締め付けていた嫌な雑音が、その微弱な「冷たい光のような思考」に触れた瞬間、嘘のようにスッと霧散していくのを感じたからだ。
(この音は……だれ……?)
それは、数日前にこのドミトリーにやってきた、あの静かな新入り――カイトのものだった。
誰もが恐怖に怯え、あるいは狂気に染まるこの特区の中で、彼は誰にも気づかれない水面下で、巨大な要塞のシステムそのものに静かに牙を立てていた。その鋭くも心地よいまでに整った思考の波は、セレスティアにとって、生まれて初めて触れる「安心できる静寂」そのものだった。
セレスティアはそっと顔を上げ、カイトがいる個室の方向を見つめた。
「……あの子は、ほかの人とは……違う……」
狂気の聖母が暗躍し、不気味な管理の網を広げ続けるメンテナンス・ベイの裏側で、少年は静かに反撃の布石を打ち、そして一人の少女がその微かな変化に気づき始めていた。運命の歯車が、音もなく回り始める――。




