第45.1話 アルゴ・シミュレータ演習開始:裏デバッグ環境の獲得
王都の地表からは遥か深層、神聖術式監査局の地下最深部に刻まれた訓練施設『アルゴ・シミュレータ』は、まるで巨大な魔導構造体の内腔そのものだった。
天井高数十メートルに及ぶ無機質な円形ドームの壁面は、あらゆる魔力を減衰・吸収する漆黒の黒瑪瑙で覆われ、その表面には冷たい銀の術式ラインが蜘蛛の巣のように緻密に走っている。
上方を取り囲む多層構造の監視デッキからは、防魔ガラス越しに無数の観察官たちが冷酷な視線を投げ下ろし、天井から垂れ下がる巨大な魔力計測用クリスタルの束が、明滅する青紫の光とともに「じじ……」と微かな放電音を奏でていた。
この施設では連日、捕らえられた「被検体」の潜在能力に応じた徹底的なスペック拡張プログラムが組まれていた。
身体能力に優れた者には限界を超えた打撃訓練を強いて肉体を鍛え上げ、魔法が得意な者には回路が焼き切れるまで魔力を流し込む。そうして個々の限界能力を物理的に拡張し、国家の裏で動かす実戦駒としてのパフォーマンスを極限まで鍛え上げるのだ。支配や統制はすでに胸の『黒曜神経核』で完全に完了しているからこそ、ここでは純粋な「性能向上」のみが追求されていた。
隣の部屋からは、限界を超えた過負荷訓練に耐えかねた被検体たちの呻き声や、全身を激しく痙攣させて肉体が床を打ちつける音が聞こえていた。
そして、ドームの中央に立たされていたのは、小さな体の少年――カイトだった。
「被検体コード701。思考同期率、48パーセント。高負荷ストレス試験を開始する」
アナウンスと同時に、胸の奥深く――心臓の傍らに埋め込まれた『黒曜神経核』がドクンと不気味に脈動した。その核を経由し、監査局の中央サーバーから崩壊寸前の危険な禁忌データが、怒涛の濁流となってカイトの脳へ直接流し込まれる。
「が、はっ……!?」
劇物のようなデータ負荷が、幼い身体の限界を瞬時に食い破る。カイトの膝ががくがくと崩れ、鼻から赤黒い血が溢れて黒い床へと滴り落ちた。指先から全身へ伝わる激しい痙攣。喉の奥から込み上げた血を吐き出し、視界が真っ赤に染まる。
普通なら、脳神経が焼き切れて二度と立ち上がれなくなる高負荷だ。だが、猛烈な激痛の奥で、カイトの思考回路だけは絶望的なまでに冷徹に回転していた。
監査局の狙いはいたって合理的だった。精神統制などはコア一つで事足りる。彼らの目的は純粋に、被検体の処理能力を限界まで引き上げるための強引なオーバークロックそのものだったのだ。
(……くそ、身体が追いつかない……! だが、願ってもないチャンスだ。この強引なデータ過負荷を受け止め続ければ、脳の並列処理能力が物理的に拡張される……!)
カイトは吐血しながら、流し込まれる膨大なノイズデータを脳内の《仮想実験環境》へ迂回させ、処理を分散させた。
そしてかつて構築した《仮想実験環境》は、監査局の巨大な脳内負荷と過酷なオーバークロックをいなす過程で、より強固に、外部から完全に遮断された空間技能――《完全隔離空間》へとその構造を急速に深化・進化させていく。
監査局が純粋な能力向上のために課してきた過負荷を、カイトはSEとしてのロジックで完璧に利用する。カイトは裏で自作のハック用プロトコルを同時起動させた。
まずは監視システムに対し、正常なバイタルと「限界ギリギリで耐えている生体波形」のダミーデータを流し続ける隠密技術――《生体パラメータ偽装体》を展開。監査局の観察官たちの目を欺き、テストの強制中断を回避する。
さらに、データ過負荷によって焼き切れかける脳神経回路に対し、痕跡を残さない細胞レベルの治癒技能――《最適化版治癒》を間髪いれずにあてがった。
(よし……! 偽装ログでテスト時間を限界まで引き伸ばし、神経の破壊と修復をリアルタイムで回し続ける……!)
破壊と再生を極限まで繰り返した脳神経回路は、秒単位でデータ処理の通信速度を広げていった。並列処理できる情報量が跳ね上がり、カイトの思考速度(クロック周波数)はこれまでと比べものにならない領域へと進化を始めていく。
さらにカイトは、自身の本質である「魔法を最適化する最強のデバッガー」としての能力を完全に隠していた。本来なら一瞬で解析・修正できる能力を伏せ、わざと処理を遅らせ、出力波形を乱して「過酷な能力拡張演習に悲鳴を上げながらかろうじて食らいついている」ように演じてみせたのだ。
監査局には「過剰負荷演習によって想定通り処理能力が向上している」正常な生体バイタルを見せかけながら、カイトは拡張された脳の処理速度をフルに活用する。すでに自身の中にあるコアを中継点にし、送られてくるアクセスログの逆引きによって、この『アルゴ・シミュレータ』を司るローカル制御OSの管理者権限(Root権限)へと、裏で確実に侵蝕の手を伸ばしていった。
(これでこの訓練空間の権限は落ちた……。次からは演習の負荷パラメータを裏で書き換え、効率よく自分を強化する『デバッグ環境』として利用できる……!)
「被検体、生命維持ライン下限。だが意識の保持を確認。予定通り処理能力の拡張を認証。そのまま実戦術式割り込み演習へ移行」
血で胸元を染めたまま、カイトは無感情に指先をかざす。投影された仮想敵の魔法回路に対し、急成長した脳の処理速度で瞬時に欠陥を見抜き、0.1秒で例外処理を叩き込んだ。一瞬で消え去る光の回路。
「……素晴らしい。能力拡張にともなうコード干渉精度の向上を確認。仕上げだ。残留魔力のコードクレンジングを」」
教官の声とともに、不都合な痕跡を消し去るための隠蔽プロトコルがカイトの脳内へ注ぎ込まれる。
(……くっ……パッチ処理も……もう、追いつかない……。肉体の……限界、だ……。だが……完璧……だ……。血を吐いた甲斐は……あった……。脳のスレッド拡張……完了……。ハックログの偽装も……成功……)
訓練終了のシグナルがドーム内に鳴り響く。
その瞬間、張り詰めていた糸がぶつりと切れた。幼い身体の物理的限界を超えた疲労と過負荷が一気に押し寄せ、カイトの視界が急速に暗転する。彼は床の血溜まりの中へとそのまま崩れ落ち、意識を失った。
監視デッキの観察官たちは、限界までスペックを引き出された被検体が脱力して倒れ伏したのだと冷酷に判断する。
「被検体701、能力拡張の術式完了。ただちに魔導ストレッチャーを手配し、『特区ドミトリー』へ移送せよ」
だが彼らが作り上げたのは、扱いやすい兵器などではない。能力向上のための過負荷訓練を利用して自らの脳スペックを覚醒させ、意識を失う直前までに訓練施設そのものを裏で完全接収した最強のデバッガーだった。




