第5話 3歳:石造りの館と父親のスパゲティ魔法
三歳になる頃には、俺の足取りはすっかり確かになり、体内回路の基本構造も完璧に組み上がっていた。
実は、この「0歳から三歳まで」の期間は、魔力回路のシステム基盤を構築する上で絶対的なデッドライン(仕様凍結の期限)だった。三歳を過ぎると魔力の通り道が肉体に定着してしまい、後から根幹の構造を書き換えることは不可能になるからだ。
父親の書斎でこっそり読んだ古い文献によれば、大昔の時代にはこの事実が広く知られていたらしい。古代の魔法使いたちは、親が0歳から三歳までの我が子に毎日少しずつ魔力を流し込み、回路の形を整える「基盤構築」の儀式を代々行っていた模様だ。
しかし、その技術は長い歴史の中で完全に失伝してしまった。現代の魔法使いは皆、野生のまま複雑に絡み合った回路を放置し、後から無理やり魔力を通す非効率な使い方しかできなくなっている。
おまけに、古代の親たちが行っていた基盤構築も、あくまで「感覚」や「経験則」に頼った手作業であり、決して完全なものではなかったようだ。
だが、俺は違う。前世のSEとしての知識をフル稼働させ、ミクロ単位のバグを自力で一つずつ潰しながら、完璧なアーキテクチャを組み上げたのだ。結果として俺の回路は、失われた古代の遺産すら到達できなかった「完全最適化」というチート級の処理能力を獲得していた。
……とはいえ、無駄を削ぎ落としすぎた代償もまた、小さくはなかった。
魔力の通り道がスムーズすぎて体に負荷がかからないため、筋肥大のように魔力の器が拡張されず、魔力の『総量』が極端に少なくなってしまったのだ。
現代のスパゲティ回路は非効率だが、その凄まじい過負荷に耐える過程で器が広がり、結果的に莫大な魔力量を手に入れられる。
――演算装置は超ハイスペック、しかしバッテリーは極小。これが、俺の選んだトレードオフだった。
我が家であるアデルハルト領主の館は、古い石造りだ。冬になると冷たい隙間風が廊下を吹き抜けるが、大きな暖炉にナラ薪がくべられ、パチパチという音と共に香ばしい煙の匂いと温かな熱気を運んでくる。
父・アルベルトは、アーク=ルミナス神聖王国の最北端に位置するこの貧しい領地を代々治めてきた伯爵だ。もっとも、中央からは使い捨ての防壁のように冷遇されている『名ばかりの伯爵家』ではあるのだが。
◇
ある晴れた秋の朝、俺はアルベルトに連れられて、館の裏手に広がる庭園へと足を踏み入れた。落ち葉がふかふかの絨毯のように敷き詰められ、冷たく澄んだ空気を吸い込むと、湿った土と甘酸っぱい腐葉土の匂いが肺を満たす。
「お父様、きょうはおしごと、ないの?」
「ふはは、街道砦の警備シフトがない『非番』の日だからな。書類仕事を片付ける合間に、お前と庭を歩く時間くらいは作れるさ」
アルベルトは剣のタコが硬い、頑骨な騎士のような見た目の父親だが、頭を撫でてくれるその手は驚くほど温かかった。
「カイト、我がアデルハルト家に伝わる『強化魔導』を見せてやろう。一般には強化魔法などと呼ばれるが、我ら武家の流派として洗練された技だ」
アルベルトは傍らに転がっていた拳大の石ころを拾い上げると、軽く握りしめた。彼の腕の太い筋肉を通じて、ゴツゴツとした橙色の魔力が石に注入される。
ドン!
彼が石を投げつけると、10メートルほど先の池の縁にあった岩が、激しい音を立てて砕け散った。鋭い破片が飛散し、水煙が上がる。
「どうだ、カイト。すごいだろう」
得意げに胸を張る父親。だが、元SEである俺の目には冷や汗ものだった。
(……なんて不細工なスパゲティコードだ……)
彼の力任せな魔力注入のせいで、石ころの内部構造は投擲前から破砕限界を超えて崩壊し、肝心の衝撃波の7割が明後日の方向へと逃げていた。あれではエネルギー効率が悪すぎるし、一つ間違えれば手元で暴走して暴発する危険すらある。
(力任せに魔力を流し込むんじゃなくて、岩の構造の『脆弱性』を突けば、指先で小石を弾くだけで割れるのに……)
「カイト? 驚いて声も出ないか?」
「うん……お父様、すごいね!」
幼子らしい無邪気な笑顔を浮かべて拍手してみせる。父親は「そうだろう、そうだろう!」と満足そうに髭を蓄えた顎を撫でた。
その日の午後。おやつの時間に用意されたのは、メイドのマーサお手製の焼き立てのリンゴのタルトだった。
表面には甘く煮詰められた柔らかいリンゴが美しく並べられ、シナモンに似た香辛料の甘い香りが部屋中に漂っている。三歳の小さな歯でも食べやすいようホロホロと崩れるしっとりとした生地を噛み締めると、甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がり、疲れた脳をじんわりと癒やしていく。
「カイト様、美味しいですか?」
「うん! マーサのタルト、だいすき」
嬉しそうに頬を染めるマーサ。タルトを口に運びながら、俺は体内で起きている代謝を観察していた。糖分が急速に脳と身体へ吸収され、疲弊していた回路に澄んだ魔力が満ちていく。魔力の回復ロジックは、脳の疲労回復と明確にリンクしているのだ。
そして日が落ち、夕刻の帳が下りる頃。
分厚い灰色の花崗岩で組み上げられた館には、昼間とは違う重厚な空気が漂い始める。石壁の隙間から染み出すひんやりとした冷気と、食堂の暖炉から流れてくる芳ばしい煙の匂いが交じり合っていた。
「カイト様、お食事の準備が整いましたよ」
大食堂の長いオーク材のテーブルに着くと、鼻腔を強く刺激する濃厚な匂いが押し寄せてきた。
今夜の献立は、大人向けの厳つい角鹿の香草焼きのほか、カイトの分としては、同じ角鹿や根菜を塩豚とじっくり煮込んでトロトロに柔らかくした濃密なシチューが用意されている。野性味のある焦げた脂の匂いと爽やかな香草の香りが、空腹の腹に心地よく響く。
ドスン、と重い足音が響き、父アルベルトが席に着いた。
「カイト、今日も元気にしていたか」
アルベルトが太い腕を伸ばし、大人の歯でも噛みごたえのある硬いライ麦パンを無造作に引きちぎる。カイトの皿には、そのパンをスープに浸して柔らかくふやかしたものが用意されていた。その瞬間、俺の視線は父の腕の『魔力の流れ』に再び釘付けになった。
(……昼間の投擲の時だけじゃない。ただ硬いパンを引きちぎるだけの日常動作にすら、肩から背中、無関係な指実にまで過剰な魔力が漏れ出している……)
前世のSE感覚で言えば、ただのファイルコピーの処理に対して、CPUの使用率を100%まで跳ね上げ、冷却ファンを爆音で回しているような状態だ。大量の「魔力浪費」と熱ノイズ。これがこの世界で洗練されたとされる技法の正体だった。
夕食を終えると、館の奥にある石造りの浴室へと向かう。
大きな木樽の風呂には、湯沸かしの魔導具で温められた湯が満たされており、カモミールに似た薬草の甘い湯気が充満していた。
「ささ、カイト様。お湯が冷めないうちに温まりましょうね」
マーサの手で服を脱がされ、湯船に浸かる。じわぁっ、と暖かさが三歳児の小さな体に染み渡り、肌にまとわりつく湯の感触が全身の緊張をほぐしていく。俺はこのリラックスした時間を『ローカル環境での最終テスト』に当てていた。
(父さんの『強化魔導』をベースに、無駄を全て削ぎ落とした身体強化アルゴリズムを組み立てる……)
俺は湯船の中で小さな足を伸ばし、回路を通じて足の筋肉へ魔力パケットを直接送信した。
【テスト実行:Ver 1.0.0 — 脚部筋力アンプ】
——ピクッ!
(ぐ……っ! 太ももの筋肉が急激に収縮した……!?)
湯の中で右足が痙攣するように跳ね上がった。過電圧だ。人間の神経系と筋肉に対して、魔力の信号強度(ボルト数)が強すぎたのだ。
(修正だ。筋肉への直接入力ではなく、神経伝達物質の放出を促進する『平滑化バッファ』を間に挟む……)
湯気の立ち上る風呂の中で、息をひそめてコードを修正(書き換え)する。
【テスト実行:Ver 1.0.1 — 平滑化バッファ適用】
——すっ。
足の指実に、じわりと力強さが充填される。痙攣も違和感もない。自分の身体が羽のように軽く、完璧な制御下にあるという確信だけが体内に満ちた。
(成功だ……! 消費魔力は父さんの五分の一以下。なのに、出力と応答速度は段違いに高い)
「はい、上がりましょうね。風邪を引いちゃいますから」
マーサに厚手のフワフワとしたタオルで包まれ、湯から引き上げられる。
「カイト様、なんだか今日はとっても嬉しそうですねぇ」
不思議そうに覗き込む彼女に、俺は三歳児らしい無邪気な笑顔を返しておいた。
誰もいない自室に戻った夜。
濡れた髪を乾かした俺は窓辺に立ち、月が浮かぶ群青色の夜空を見上げた。
そっと人差し指を立てる。無詠唱。無動作。
昼間の父親の「スパゲティ魔導」を完全にリファクタリングした俺は、0歳から完璧に組み上げた自分自身の回路を使い、極小の魔力で指実に青い光の粒を静かに生み出した。
(肉体というハードウェアの限界を超え、自分だけの特別な魔法回路の構築はこれで完璧だ。……さあ、いつでも来い、このバグだらけの世界)
誰にも知られることのない、揺りかごのエンジニアの基盤完成。
この強固なインフラストラクチャこそが、後に世界を揺るがすことになる俺の「最大の武器」だった。武器」だった。




