第42話 エラーログの向こう側と、抗えない肉体(ハードウェア)の涙
漆黒の魔導鉱石に囲まれた特区ドミトリーの自室。壁の継ぎ目から滲み出す冷気が肌を刺し、鉄と硫黄の混じった澱んだ空気が鼻を突く中、カイトは胸部の『黒曜神経核』の演算回路を極限まで開放していた。
張り巡らせた裏口を伝い、監査局の膨大な情報アーカイブの深層へと潜っていく。監視カメラの映像、警備シフト、そして組織が収集した要人たちの生体データ。その厳重に秘匿された格子状情報の隙間に、なぜか故郷の辺境領地に関する古い監視ログが不自然に混ざり込んでいることにカイトは気づいた。
(……これは、実家の……?)
思考の波長を同期させると、暗号化された音声と映像のログが、高精細な魔導ディスプレイの代わりとなって脳内のメモリに直接展開される。
そこに映し出されていたのは、あの日――『黒曜の検体』によってカイトが連れ去られた後の、アデルハルト家の子供部屋だった。
薄明かりの差し込む部屋には、もはや少年の温もりのかけらもなく、冷たい夜風が寂しく床板を鳴らしている。
栗色の髪を乱した母・エレナは、ベッドの縁にしがみつくように崩れ落ち、カイトが脱ぎ捨てた小さなシャツをぐっしょりと涙で濡らしながら、「カイト……! 返して……!」とひび割れた声で狂ったように号泣していた。
その傍らでは、誇り高き領主である父・アルベルトが立ち尽くしたまま鉄灰色の髪を荒々しくかきむしり、耐えきれずに膝をついていた。スチールグレーの瞳から大粒の男泣きの涙を溢れさせ、喉の奥から獣のようなうめき声を漏らしながら、血が滲むほど固く握りしめた拳で何度も、何度も床を打ち付けている。
さらに部屋の外の廊下では、メイドのマーサが壁に背を預け、顔を覆って「カイト様……っ! あぁ、うっ……!」と言葉にならない悲痛な嗚咽を漏らして崩れ落ちていた。
◇
家族の日常が跡形もなく引き裂かれた、絶望と激しい悲嘆の光景。
その映像とくぐもった泣き声が脳髄を揺らした瞬間、カイトの冷徹な理性の奥底に堅く封じ込めていた「記憶」の蓋が弾け飛んだ。
特区ドミトリーの鉄と硫黄の不快な臭いが、ふっと意識から消え去る。
代わりに鼻腔を強烈に満たしたのは、愛に溢れた故郷の匂いだった。
思い出したのは、ふんわりと暖かい光に包まれたあの日の感覚。独特な甘いミルクの匂いと乾いた藁の匂いが溶け合った、温かいスープのような日常の気配。
口元に押し当てられた、甘く濃密な母乳の味と、母・エレナの柔らかな人肌のぬくもり。
オムツを替えてもらうたびに、メイドのマーサが首のシワや手足のくびれに丁寧に塗り込んでくれた、爽やかな薬草のオイルの匂い。
記憶の波は、確かな重みと色彩を持ってカイトの五感を埋め尽くしていく。
少し大きくなって歩き回った秋の日の庭。太陽の柔らかい温もりとともに立ち昇る、湿った黒土とどこか甘酸っぱい腐葉土の匂い。
遠くの煙突から澄み切った秋空へと吸い込まれていった、ナラ材の芳ばしい薪の香り。
そして、庭のベンチでマーサが優しく畳んでいた、おひさまの匂いと微かな石鹸の香りが漂う洗い立ての麻布の感触……。
圧倒的な情報量を持つ「愛されていた温かな記憶」の濁流が、現実の冷たい石造りの部屋との残酷な対比となって、カイトの意識を飲み込んだ。
(……っ、やめろ……俺は……)
転生者としての成熟した精神が、必死に致命的なエラーを弾き出そうとする。自分はもう、二度と不意を突かれて拉致されないよう、この世界を管理する組織のすべてを屈服させるだけの力を蓄えるのだと、幾重にも理性の防壁を展開しようとした。
だが、それを収容している「器」は、親の愛を本能レベルで渇望する未熟な五歳の肉体だった。
胸の奥でチリと疼いていた痛みが、突如として別の熱を帯びて喉の奥を塞ぎ、胸郭を鋭く突き刺した。
処理容量を遥かに超えた急激な喪失感と悲しみが、強制的な生体フィードバックとなって自律神経系を暴走させる。大人の理性を、幼い肉体が発する純粋な悲鳴がいとも容易く焼き切っていく。
(くそっ……なんだよこれ……身体が、勝手に……っ!)
どんなに卓越した魔導技術を持っていようと、どれほど冷徹に要塞のシステムをハッキングしようと、彼はまだ、母の腕の中とミルクの匂いを恋しがる一人の幼子に過ぎなかった。
視界がぐにゃりと濁り、熱い塊が喉の奥を塞いだ。ヒュッと息が引き攣り、まともに呼吸すらできなくなる。
頭の中で必死に鳴り響いていた冷ややかな理性の声が完全にショートし、あふれ出る大粒の涙が止めどなく頬を伝って冷たいシーツを濡らした。
監査局の冷酷な管理も、過酷な要塞での日々も、その瞬間すべてが吹き飛んだ。
カイトは、おひさまの匂いの代わりに鉄の臭いがこびりついた寝台の布を、小さな両手で引き千切れるほどにぎゅっと掴みしめた。
「かあ、さん……っ! とう、さん……っ!」
喉の奥を引き裂くような、掠れて裏返った悲鳴が漏れる。それは冷静なハッカーの演算でも、冷徹な魔導師の思考でもなく、ただ暗闇に放り出された五歳の幼子が、母親の腕を必死に求める剥き出しの泣き声だった。
抗えない肉体の衝動と、前世の孤独な魂が完全に融け合い、少年は小さな身体をエビのように丸め、声を殺しながらも激しく号泣した。
誰もいない漆黒の独房で、たった一人残された少年の、胸を引き裂くようなむせび泣きだけが、虚しく、そしてひどく切なく響き渡るのだった。




