第40話 空間歪曲(コード・シフト)の解析者(Side:ゼノン)
それは、カイトが『神聖術式監査局』の特別療養房へと収容される、ほんの少し前のこと――。
王都の表通りを彩る華やかな魔導灯の光が届かない、底冷えする石畳の路地のどん詰まり。そこには、街の景観から完全に遊離したかのような、漆黒の巨石と冷厳な幾何学模様の壁面で構成された異形の建造物がそびえ立っていた。
窓という窓は極限まで削ぎ落とされ、代わりに外壁の表面には、国家の魔導インフラを監視するための微細な青白いルーンの回路が、不気味にチリチリと明滅している。それは王国の隅々まで張り巡らせた網の目で真実を検知し、秩序を揺るがすすべての「異物」を沈黙させる、巨大な魔導の要塞にして密儀の裁判所――『神聖術式監査局』であった。
神聖術式監査局の最深部に位置する無機質な執務室。
そこは、王国のあらゆる魔導インフラの稼働状況が、青白い光を放つ無数のルーンの奔流として壁面を流れ落ちる、いわば世界の「ソースコードの直近」だった。
漆黒のロングコートを纏った長身の男――ゼノン・フォン・グレイスは、その中央に静かに立ち尽くしていた。
銀灰色の髪が冷厳な空調の風に揺れ、彼の鼻腔には常に彼自身が纏う上質な香油の芳香と、魔導術式が高密度で稼働するとき特有のピリピリとしたオゾン臭が満ちている。
ゼノンの右袖の中で、微かな、しかし精密な駆動音がチリチリと響いていた。
彼の右腕は、通常の肉体ではない。魔導演算用の無数のルーンがビッシリと刻まれた特製の義手――この世界の理の矛盾を力任せにねじ伏せ、数式として再定義するための「特権的なモジュール」である。
(……まただ。この世界の至る所で、仕様書の記述を無視したバグが散発している)
ゼノンの冷徹な琥珀色の瞳には、現実の景色が立体的なプログラムのコードとして映し出されている。
人々が「奇跡」や「神業」と呼ぶ強大な魔導も、彼にとってはただの冗長で効率の悪いスクリプトにすぎなかった。世界という名のシステムは老朽化し、あちこちに矛盾やバグを抱えたまま、かろうじて形を保っている。
かつて王国最高の天才魔導師と謳われた彼は、その真実に気づいてしまったがゆえに表舞台を捨て、この闇の特務機関へと身を落とした。
この世界の不完全さを許せず、すべての例外を自らの手で監査し、修正し続けるために。
だが、その日の監視モニターの流束の中に、ゼノンの冷徹な演算回路をわずかに逆なでする「異質なパルス」があった。
それは、遠く離れた辺境の地――アデルハルト領の周辺で観測された、規格外の氷魔法の暴走、そしてそれを「完璧に丸め込んで隠蔽した」痕跡だった。
(――なんだ、これは?)
通常の魔導師であれば、暴走した大出力の前にただ焼き尽くされるか、あるいは都市全体のクラッシュを招くだけだ。だが、そのデータの波形には、荒削りながらも、あまりにも美しく無駄のない「例外処理」のコードが刻まれていた。
システム全体の整合性を保ったまま、不都合なバグの数値をピンポイントで書き換え、何事もなかったかのように日常というプロトコルを継続させる。
それは、ゼノン自身が長年追い求めながらも、この世界の古い基盤の上では不可能だと諦めかけていた「究極のデバッグ」そのものだった。
「……面白い」
ゼノンの薄い唇が、冷ややかに歪む。
感情の欠落したその瞳に、この世界で初めて、鋭い探求の熱が灯った。ただの処分対象(エラー品)ではない。この腐った世界のソースコードを根底から書き換え得る「同質の異端」が、どこかに存在している。
ゼノンが魔導演算用の義手を軽く握りしめると、その内部構造から静かな駆動音が響き、暗い執務室の空気が微かに張り詰めた。空間歪曲魔導――空間そのものの数値を書き換え、一瞬で物理法則を無視した跳躍を引き起こす彼の奥義を呼び出すべく、義手の中央処理層が高速でパラメータを読み込んでいく。
ゼノン・フォン・グレイスは冷徹な眼光を放ち、低く鋭い声を紡いだ。
「放置はできない。……俺の管理下で、そのコードが本物かどうかを直接監査してやろう」
視線を前方に固定したまま、静かに義手をかざす。
(――アーク・コード呼出。空間歪曲ライブラリ・『短距離転移』)
直後、彼の全身を覆うように過剰な密度の青白いルーン光芒が幾重にも展開し、バチバチと激しい不快な高周波を室内に撒き散らした。世界の理を力づくで書き換える凄絶な光芒と圧迫感が、周囲の空間を重く圧迫する。
キィィン、と空間が軋むような鋭い歪曲音とともに青いルーンが収束し、残像を残してゼノンの姿がその場から消失した。
王国を揺るがす「最高峰のバグ」と「最強の監査官」の運命的な邂逅は、こうして静かに、しかし絶対的な必然として幕を開けようとしていた――。




