第35話 密室の裏口と仮想の海
立ち込める白濁した湯気と、足裏に伝わるタイルの冷たい感触。白く曇り切った鏡の向こうでは水滴が無機質な壁を伝い、外界の喧騒から完全に隔絶されたこの個室の浴室は、神聖術式監査局の厳重な監視網を欺くための絶好の密室となっていた。
浴室の生体センサーから外の監視端末へと送られるステータスは、カイトの手によって「入浴による生体リフレッシュ」という偽りのプロセスへと書き換えられており、今の時間は誰の干渉も受けない偽りのプライベート・スペースと化していた。
壁面に設置された高精細な魔導ディスプレイからは、日中のリハビリ室で見せられたものと同じ、どこまでも広がる青い海と穏やかに波打つ水面の映像が環境癒合プログラムの一環として投影され、人工的な潮騒の音が浴室を満たしている。
(……医療部門の個室の浴室にまで、わざわざこんな環境適応用のディスプレイを常設しているのか)
「……さて」
カイトはタイルの上に膝をつき、濡れた髪から滴る水滴をそのままに、呼吸を整える。
胸の奥――心臓のすぐ傍に埋め込まれた『黒曜神経核』が、冷たい水音に共鳴するようにドクン、と重く脈打った。
(浴室の給排水パイプは、フロア全体の魔導配管網と直結している。水蒸気と湿気は魔導シグナルの拡散効率を跳ね上げる最高の伝導媒体だ……ここで『偽装・逆流同期』をフル稼働させる)
日中のリハビリ室では幾重もの監視と環境的制約によって接続を弾かれたが、この完全な密室であればその続きを存分に展開できる。目の前に広がる海のデータ構造も、ハッキングの隠れ蓑として最高のノイズ源となるはずだ。
カイトは両手を床の排水口へと添え、目を閉じた。
次の瞬間、胸のコアから奔流のような魔導パルスが全身の神経回路を逆流して駆け抜けた。それは肉体を焼き焦がすような激しい苦痛を伴うものだったが、カイトの表情筋は微動だにせず、あどけない少年の面影の裏で冷徹な意識だけが冴え渡る。
発せられる拒絶ノイズを浴室内の水流音や高湿度の魔導フィールド、そしてディスプレイの環境音に巧みに重ね合わせて監査局の検知網を欺き、排水パイプの振動をアンテナ代わりにしてフロア管理システムへと不正なハッキングパケットを流し込んでいく。
(……浅層ファイアウォール、突破。配管センサーのログを偽装完了。……よし、これでこの区画の給排水ラインを通じた独自の裏口の構築は完了だ)
構築したバックドアの利用価値は計り知れない。
神聖術式監査局の厳重な防衛網において、給排水や換気といったライフライン系の制御系統は、閉塞空間の維持という絶対命題ゆえに、他の主要なセキュリティ区画と比べて外部からの隔離が甘いという致命的な構造的盲点がある。
カイトはこの裏口を介して、物理的な移動を伴わずにフロア全体の監視カメラの映像改ざん、各区画の自動扉のロック解除、さらには上位管理端末へのアクセス権限(特権ID)の窃取といった、あらゆる魔導干渉を露見することなく行うことが可能となる。
だが、この心臓に巣食う『黒曜神経核』の出力を引き出し、ライフラインを伝う小規模なバックドアを構築するだけでも、今の神経回路には凄まじい負荷がかかっていた。
肉体を焼くような痛みを代償に強引なハッキングを成立させてはいるものの、広範囲のネットワークを同時に掌握し、要塞の深部へと食い込んでいくには、現在の生体神経ネットワークの処理容量では決定的に限界が近い。
(……これほどの痛みを伴う荒技も、現状の五歳の非力な肉体と神経回路のままでは延命治療の延命にすぎない。コアの膨大な演算ポテンシャルを完全に引き出し、リアルタイムで要塞全体の情報を処理し尽くすためには――やはり、脳内演算領域のさらなる拡張と肉体の成長が不可欠だ)
湯気が肌を濡らす中、目の前の波打つ海面が揺らめく中、カイトは静かに息を吐き出しながら、次なる肉体改造へのロードマップを冷徹に脳裏へと描き切った。
外見のあどけない「怯えた保護観察対象の少年」という仮面を纏いながら、その内側では確実に、この要塞の深部へと牙を立て始めているのだった。




