第34話 メンテナンス・ベイの聖母と夜の密謀
静寂が夜の闇に溶け込む頃、特別療養房の扉がスライドし、足音を響かせて一人の女性が入ってきた。
艶やかな漆黒の長髪を緩く束ね、白衣の上からでもはっきりと分かる豊満で均整の取れた体躯。どこか気だるげな色気を孕んだ顔立ちは冷たい陶磁器のように白く、殺伐とした神聖術式監査局の施設内ではあまりに異質な、官能的なまでの美貌を漂わせている。
彼女はベッドの上で座っていたカイトにゆっくりと歩み寄ると、冷えた頬に艶やかな指先でそっと触れた。
「こんばんは、可愛い患者さん。ちゃんとした挨拶は初めてだったわね。私がこの医療部門『メンテナンス・ベイ』の主席担当医で、カイト君の主治医のエリカ・ロテュスよ。エリカ先生って呼んでちょうだいね」
「実は私、普段は別の拠点に籍を置いていてね。ここに足を運ぶのは定期的なシフトの時だけなの。毎日は付き添ってあげられないけれど、私がいない日も優秀なスタッフたちが私の指示通りに動いてくれるから、安心して体を休めてね」
甘やかな声色と、彼女の体から微かに香る高濃度魔力液の匂いが混ざり合う。まるで怪我をした子供をあやすような「聖母」の振る舞いだが、カイトの冷徹な脳内演算は、その肉感的な色気と優しい空気の裏側にある異常な「管理欲求」を即座に感知していた。
エリカは慈愛に満ちた瞳を向けながら手持ちの魔導端末で、カイトの胸部『黒曜神経核』周辺から発せられる微弱な魔導波形をチェックし始める。
「……あらあら、心拍同期も神経回路の再配線も、データ上の数値としては想定外の適合率ね。三日目にしては上出来よ、カイトくん。痛かったでしょうに、よく頑張ったわね」
とろけるような笑みを浮かべたまま、エリカは今日の状況と今後の通達を囁くように言い渡した。
「本日の『負荷脈動ストレッチ』の負荷で強張った体をほぐしてあげるために、規定に基づき、今日から房内の専用浴室での入浴を許可するわ。ただし、術後の傷口を過度に濡らさない防水処置と、生体魔導フィールドの安定化が条件よ。勝手な外出や端末の不正操作をしたら……あなたというハードウェアを、一度すっかり解体して綺麗にオーバーホールし直さなきゃいけなくなるから。いい子にしていてね?」
「……はい。エリカ先生、ありがとうございます……。僕、いい子にしてます……」
カイトは怯えたように小さな肩を震わせ、すがるようなあどけない少年の声音で従順に頷いてみせた。
「ええ、いい子ね」と満足げに微笑んだエリカが淡々とカルテを更新し、再び部屋を退出していく。その色香を帯びた足音が完全に遠ざかるのを確認しながら、カイトは漆黒の瞳の奥で冷酷な光をちらつかせた。
(……ふっ。やはり外見の美しさと優しさでシステムをコーティングした、最もタチの悪いバグみたいな女医だな)
だが、都合が良いことには変わりない。
(専用浴室、か。水や湿気は魔導シグナルの伝達効率を変化させる。入浴中の無防備な時間こそ、浴室の給排水システムを介してフロア全体のネットワークを掌握する絶好の機会だ――)
表面上の従順さを完璧に保ちながら、カイトの頭脳は早くも夜の入浴時間を狙った次なるハッキングの緻密なシミュレーションへと移行していた。




