第33話 エクリプス・コアと偽りの朝
療養生活が三日目を迎えた朝、静寂に包まれた特別療養房の扉が音もなくスライドした。
やってきたのは、胸元に『研修生』のIDプレートを提げた若い女性看護師だった。肩口で綺麗に切り揃えられた蜂蜜色のショートボブを揺らし、目の下にうっすらと疲労の色を湛えたその顔には、不慣れな業務に対する緊張と、医療従事者としての規律を崩すまいとする硬質なプレッシャーが滲み出ている。彼女が手元のトレイから手際よく降ろしたのは、昨日の昼から切り替わったという「通常の療養食」――到底、隔離施設の食事とは思えない、豪奢で食欲をそそる朝のメニューだった。
こんがりと黄金色に焼き上げられた厚切りのトースト、濃厚な半熟のポーチドエッグ、色鮮やかなサラダに琥珀色のオニオンスープ。それらをサイドテーブルに乱れなく並べると、彼女は引き締まった表情のまま告げた。
「……おはようございます。朝食です。しっかり召し上がってください」
「おはようございます……お姉さん。あの、こんなに美味しそうなごはん……僕が、食べてもいいの……?」
カイトが不安げな少年の仮面を纏い、おずおずと尋ねると、彼女はマニュアル通りの落ち着いたトーンで答えた。
「規定の療養食ですから問題ありません。体に負荷がかかるリハビリも増えますから、しっかり食べて体力をつけてくださいね」
必要以上に私的な感情を交えるわけではないが、教育を受けた医療者として最低限の理性と丁寧さを保った対応だった。
「……はい。僕、痛いの我慢して、言われた通りに頑張るから……」
「……無理をしすぎるのは禁物ですが、規定のプログラムはこなしていただきます。体調に異変があればすぐに報告してください。それでは、検温を行いますね」
体温計を丁寧に当て、数値を確認すると、彼女はプロとして手早く記録をつけた。
健気な作り笑いを浮かべて頷きながら、カイトは極上の朝食を口へと運ぶ。サクッとしたトーストの食感と、濃厚な卵の旨味が絶妙に絡み合い、疲労した肉体に極上の活力を染み渡らせていった。
(……悔しいが、この味の完成度の前では思考が一瞬停止する……)
最後に熱いスープを飲み下すと、カイトは空になったトレイを差し出した。
「ごちそうさまでした……」
彼女は「お疲れ様でした」と短く返し、静かに病室をあとにする。
(……それにしても、「研修生」、か)
どちらにせよ、この徹底して作り込まれた欺瞞の裏で、着実に牙を研ぐ必要がある。
表向きは従順で怯えた保護観察対象の少年を演じながらも、カイトの脳内では冷徹な演算が高速で処理されていた。
昨夜の水面下でのハッキングとシステム解析により、彼の意識の深層には、自身の胸部――心臓のすぐ傍に埋め込まれた黒い破片チップに関する確信的なデータが焼き付けられていた。
神代機構の古の遺物・コード『黒曜神経核(Eclipse Core)』。
それは単なる生体デバイスではなく、旧文明が遺した世界改変用の根幹端末の欠損破片。生体魔導ネットワークと宿主の心拍・神経パルスを無理やり直結させることで、世界の外側からシステムへ干渉するための「絶対的な裏口」として機能する。だが同時に、稼働時には宿主の生命力を直接喰らうという諸刃の剣であった。
(……この胸の奥で脈打つ異物が、世界をハックするためのバックドアか。リスクに見合った最高の出力だな)
カイトは続けて、昨夜ハックして察知していた、今日から待ち受ける『黒曜神経核』適合のための本格的な過酷なリハビリメニューのデータを脳内で展開した。
一つ目は『領域同期セッション』。
仮想海洋ディスプレイを用い、視覚・聴覚情報を意図的にハレーションさせながら、コアから発せられる強烈な拒絶ノイズを脳の演算領域で強制的に相殺する訓練。失敗すれば激しい頭痛と吐き気に襲われるが、成功すればチップとの親和性が一段階引き上げられる。
二つ目は『負荷脈動ストレッチ』。
心拍数と連動して脈打つコアの出力変動に、肉体の生体魔導フィールドを無理やり追従させる歩行訓練。一歩踏み出すごとに心臓の裏側でコアが膨張・収縮し、全身の静脈に高圧電流のような痛みを伴う魔導パルスが駆け抜ける。痛みを意志の力でねじ伏せ、肉体の崩壊を防ぎながら神経回路の再配線を完了させる、最も身体に負担のかかるメニューだ。
三つ目は、リハビリの終わりに精神世界で行う『境界領域パージ』。
コアを通じて流れ込んでくる膨大な外部ネットワークのゴミ――遺物由来のノイズや過去の転移者たちの残骸データを、自身の思考で選別・消去し、精神的防壁を強化するデータ整理セッションである。
そのすべてが肉体と精神に激痛と過大な負荷をもたらす地獄のメニューだ。しかし、カイトの漆黒の瞳の奥には、冷たく鋭い光が宿っていた。
(施設側が用意したこのメニューは、あくまで俺をコアの『従順な器』にするためのものに過ぎない。なら、俺はこのリハビリを隠れ蓑にして、逆にシステムを食い破るオリジナルメニューを走らせる)
やがて特別療養房を後にし、壁一面に仮想の海が青く揺らめく広々としたリハビリ室へと連れ出されたカイトは、過酷な『負荷脈動ストレッチ』の最中にその計画を実行に移した。
一歩踏み出すごとに全身を駆け抜ける激痛に顔を歪め、痛みに耐えるふりをしながら、自身の神経系をアンテナに見立てる。コアから放たれる魔導パルスの波形に自らのハッキングコードを紛れ込ませ、医務室のネットワーク深層へ不正なパケットを心拍リズムに合わせて送信し続ける。
名付けるなら、『偽装・逆流同期』。
――一歩でも見つかれば即座に監査局の粛正対象となる極限の賭けだったが、この箱庭のネットワーク権限を完全に掌握し尽くすためには最適な手段だった。
いよいよ、水面下での反撃が加速する。




