第29.2話 術後夜の優しい看病と微熱の夜
神聖術式監査局の深部に位置する『術後隔離室』。そこは長年にわたり、数え切れないほどの検体たちを術後の短い間だけ収容・監視してきた空間であり、換気システムの隙間やコンクリートの壁の隅々にまで、どうしても消えない鉄の臭いと消毒液の入り混じった澱んだ臭いが染みついていた。
無機質な金属フレームに粗末に張り渡された寝台の布は、幾重もの過酷な処置で零れ落ちた血液の染みがこびりつき、ざらついた繊維の隙間から常に微量の鉄の臭いを放っている。
暗い室内に響くのは、医療モニターの規則的な電子音と、天井の送風ダクトが刻む低い駆動音だけだった。
禁忌の心臓『黒曜神経核』の埋め込みという過酷な適合手術を終えた直後の検体は、予測不能な拒絶反応や脳のバッファ破綻を引き起こすリスクが極めて高い。そのため監査局の厳重な規定により、数々の修羅場をくぐり抜けてきた高階級――『上級医務長』の資格を持つベテランの女性看護師が、術後一晩のモニタリングと個別の看病に張り付くことが義務付けられていた。
やはり、術後の激しい疲労と麻酔の残響、そしてコアの拒絶反応に叩きのめされ、五歳のカイトの意識は完全にシャットダウンされていた。思考の浮上すら許されない、底知れぬ昏睡の闇。胸の奥でドクン、ドクンと脈打つコアの振動が全身の神経を歪ませる中、彼はうめき声を漏らすこともできず、ただ熱にうなされながら冷たい寝台の上で沈黙していた。
そんな静まり返った暗闇のなか、カイトのベッドサイドへと静かで優しい足音が近づいてくる。
「――あら、まだこんなに熱が……。痛かったねえ、よく耐えたねえ」
降ってきたのは、冷徹な管理官のような事務的な声ではない。母親のように温かく、深く慈しみに満ちた女性の声だった。
夜間の担当として歩み寄ったのは、白衣の襟元に『上級医務長』の階級章を輝かせるベテランの女性看護師だった。神聖術式監査局という冷酷な組織にあって、彼女は異質なほど穏やかな母性を纏った人物だった。
彼女は手慣れた優しさでカイトの細い腕から伸びる点滴のチューブを確かめると、冷えたアルコール綿ではなく、温かく絞られたタオルで発熱に汗ばんだ額を丁寧に拭ってくれた。その手つきには、検体を「消耗品」として扱う冷徹さのかけらもなく、ただ傷ついた子供を労わる純粋な優しさが満ちていた。
上級医務長の階級を持つ彼女は切なそうに目を細め、高熱で荒れたカイトの黒髪をそっと優しく撫でる。
「何も言えなくなるほど苦しかったね。もう大丈夫だからね、痛いのも全部取ってあげられたらいいんだけど……せめて、今夜くらいはゆっくりお眠り」
彼女は小さな保冷剤を取り出し、カイトの熱にうなされる額にそっと乗せ替えた。その優しさは作り物ではなく、この地獄のような管理施設の中で、彼女が失わずに持ち続けている真心そのものだった。
完全に意識を失っているカイトは、その温もりや言葉に気づくこともない。脳内バスで張り巡らされたバックドアや防衛ロジックさえも、この深い昏睡の前ではただ沈黙し、機能停止したかのように静まり返っていた。
「……脈も、少し落ち着いてきたね。よかったわ」
看護師はカイトの様子を安心したように見守ると、目の前で傷ついている小さな命を救いたいという一心で、そっと毛布をかけ直した。
彼女には、この少年がただの検体ではなく、システムの裏で牙を研ぐ危険なエンジニアだなど知る由もない。
「おやすみ、カイトくん。明日があなたにとって、少しでも優しい日になるといいけれど……」
上級医務長の彼女は静かな足音を立てながら、暗い術後隔離室から去っていく。
誰もいなくなった暗い病室で、カイトは完全に意識を遮断したまま、ただ規則的な荒い呼吸を繰り返していた。肉体の深部から蝕むような『黒曜神経核』の拒絶反応と高熱に耐えながら、五歳の小さな体は、底知れぬ深い眠りの底へと沈み込んでいった。




