第30話 藍色の箱庭と静脈のファイアウォール
翌朝。鉄と消毒液の臭いが染みついた『術後隔離室』での過酷な夜を越え、カイトは深い意識の混濁からようやく抜け出しつつあった。
「……ええ、バイタルは安定したわね。全身の再配線と経過観察、それに神経回路の安定化を含めれば、この個体のメンテナンスにはおよそ1週間を要するわ」
視界の端で甘やかに宣告したのは、昨夜の優しい上級医務長の姿ではない。冷徹な狂気を微笑みでコーティングした、あの若い女性医師だった。
彼女の言葉通り、術後の山場を越えたカイトの「住まい」は、予定通り術後隔離室のベッドから、神聖術式監査局の医療部門が誇る『特別療養房』の上質区画へと移された。
そこは無機質な監獄というより、白を基調としたVIP用の個室病棟だった。四肢を縛り付ける拘束具の類いは一切ない。代わりに、カイトの胸部――心臓のすぐ傍の肉体深部には、今回のオーバーホールの過程で埋め込まれた禁忌の心臓――『黒曜神経核』と呼ばれる古の遺物の黒いマスターチップが脈打っていた。
物理的な束縛がなくとも、その異物が発する微弱な魔導周波数がカイトの全神経回路を常時監視しており、意思に反した逃走や暴走をシステムレベルで完全に封じる『静脈のファイアウォール』として機能する仕組みになっていた。
部屋の壁面には巨大な嵌め殺しの窓があり、そこにはどこまでも青く穏やかな、人工的にレンダリングされた「仮想の海」の風景が途切れることなく映し出されている。波が白く砕け、陽光が水面を揺らし、潮風の気配すら錯覚させるほどの圧倒的な解像度と流体演算の精度――。
昨夜、鉄の臭いにまみれて高熱にうなされていた地獄の余韻など微塵もないかのように、目の前には洗練された「管理された楽園」が広がっていた。
殺伐とした監査局の施設内においてあまりに異質なその光景に、カイトは内心で小さく息を呑んでいた。
(……おいおい、本気かよ。この魔力管理が徹底された閉鎖空間で、これほどの規模と精度を誇る物理シミュレーションと光学的レンダリングをリアルタイムで展開しているだと……? 異世界の技術力と聞いて侮っていたが、この環境構築のアルゴリズムは、俺の知るどの高度システムをも凌駕しているかもしれない……)
皮肉なまでの精神的癒しを演出するその偽りの海のクオリティに、カイトは深い驚愕を覚えつつも、それを冷徹な理性の奥底へと押し隠す。
◇ ◇ ◇
初日の夕暮れ、白衣を纏った彼女――メンテナンス・ベイの専属医であり、同時にこの療養房からの逃走を完全に阻止する監視人でもある女性医師が、艶やかな黒髪を揺らして部屋を訪れた。
白衣の上からでも分かる豊満で均整の取れた体躯と、気だるげな色気を纏ったその容姿は、まるで聖母と魅惑的な夜の蝶を掛け合わせたかのようなアンバランスな魅力を放っている。
「お身体の負担を考慮して、拘束はしていません。その代わり、この美しい海でも眺めてゆっくり休んでくださいね」
彼女は優美な笑みを浮かべると、翌日からの食事についても告げた。
「明日からは、あなたの現在の消化・代謝機能の負荷に合わせた、専用の療養食を用意するわ。しっかり栄養を摂って、早く綺麗な体に戻りましょうね」
「はい……ありがとうございます」
カイトはあどけない少年の声色で従順に頷き、彼女の検分を受け入れた。
彼女が去り、静寂が戻った部屋には仮想の海の波音が穏やかに響いている。だが、カイトの漆黒の瞳の奥で光る冷徹な理性は、混濁した意識の底に刻まれた昨夜の過酷な処置の余韻と、この部屋を包む甘やかな『偽りの優しさ』の裏に潜む狂気を明確に看破していた。
拘束具がないのは自由を与えられたからではない。体内に埋め込まれたあのコアのチップこそが、逃れられない究極のセキュリティ枷なのだ。そして、この「癒しの海」も、美しい女性医師という名の「監視人」もすべては検体を精神的・肉体的に飼い慣らすための高度な管理プログラムに過ぎない。
(……外部からの物理的脱出ルートは塞がれているが、体内に埋め込まれたあのコアのコード、そしてあの驚異的な仮想海を駆動させている医務室全体のネットワーク構造……すべてこちらの演算領域でハックの対象内だ。この精密すぎる環境制御システムを踏み台にすれば、面白いように内部から食い破れる)
窓に映る偽りの海の向こう側へ逃げる必要はない。
この1週間の療養期間を利用して、彼女が仕掛けたすべての管理システムを内部から書き換え、あの美しい女性医師ごとこの医務室の権限を掌握し尽くしてやる。
カイトは仮想の海を見つめるふりをしながら、静かに次の反撃のためのコード構築を脳内で進めていった。




