第29話 聖母のメスと欺瞞のオーバーホール
冷たい石の床で浅い眠りから覚めた俺を待っていたのは、昨日の絶望的な重圧ではなく、冷徹なまでの「管理」の気配だった。
独房の鉄格子が重い音を立ててスライドする。
姿を現したのは、ゼノンのような暴力的な圧力を纏う者ではない。白い制服に身を包んだ『観察部門』の監査官たちだった
「――バイタル数値、下限ギリギリで安定……。さすがにゼノン教官のコード・シフト負荷だ、全身に相当な負荷がかかっているぞ」
「だが、中枢神経は辛うじて繋がっている。……おい、生体反応のログを見ろ。骨格や筋繊維の修復プロセスが、通常の治癒魔導の軌跡と一致しない。まるで、損傷した組織を強引に縫い合わせ、無理やり修復したような奇妙な傷痕だ」
手元の魔導端末を叩きながら、監査官たちは冷ややかな感嘆とわずかな疑念を混ぜて呟く。
神聖術式監査局において、検体はあくまで「管理される消耗品」であり「データ記録媒体」に過ぎない。ゼノンが課したあの過酷な重力・空間訓練は、カイトの耐久限界を測るのと同時に、観察部門のアルゴリズムに「この個体がどれほどの脅威を内包しているか」を正確にデータ化させるためのものだったのだから。
「医療部門でオーバーホールを済ませれば、次のテストにも耐えられるだろう。搬送の準備をしろ」
監査官の無機質な指示に従い、俺の肉体は頑丈な魔導ストレッチャーへと固定される。四隅を拘束バンドでしっかりと締め上げられ、自動搬送のレールに沿って、地下牢の冷たい通路からさらに深層へと滑らかに運ばれていく。
◇
行き着いた先は、『黒曜神経核』が誇る最高峰の魔導医療部門――通称『メンテナンス・ベイ』。
鉄と消毒液の臭いが混ざり合うその室内には、崩壊しかけた肉体を繋ぎ止める魔力点滴チューブや、複雑怪奇な魔導解析装置が所狭しと並んでいた。
他の部門の人間が冷酷の極みであるのとは対照的に、その中央で待ち受けていた人物は、異様なまでの妖艶さと柔らかい雰囲気をまとっていた。
白衣を纏い、眼鏡の奥から慈愛に満ちた瞳を向けてきたのは、一人の若い女性医師だった。
艶やかな長い黒髪を緩く束ね、白衣の上からでも輪郭が分かる豊満で均整の取れた体躯と、どこか気だるげな色気を孕んだ整った顔立ち――殺伐とした神聖術式監査局の施設内ではあまりに異質な、官能的なまでの美貌の持ち主だった。
彼女はストレッチャーに固定された俺の体にそっと歩み寄り、冷えた頬に艶やかな指先で優しく触れる。
「あらあら……昨日の今日で、よくぞここまで耐えてくれましたね」
その甘やかな声色と、微かに香る高濃度魔力液の匂いが混ざり合う。
「痛かったでしょう。怖かったわね。もう大丈夫よ、私が綺麗にしてあげるから」
まるで怪我をした子供をあやすような、完璧な「聖母」の振る舞い。
だが、俺の脳内演算回路は、彼女の纏うその肉感的な色気と優しい空気の裏側にある「底知れぬ狂気」を瞬時にスキャンし、警告音を鳴らしていた。
彼女の瞳の奥にあるのは同情や慈悲ではない。壊れた人形を慈しむような、狂気的なまでの「管理欲求」と「修復への執着」だ。
この女にとって、検体の苦痛も絶望も、ただの「微調整のしがいがある歪み」に過ぎない。
「さあ、おいたわしい。崩壊しかけた肉体は、一度すっかり解体して綺麗にオーバーホールしてあげましょうね」
妖艶な微笑みを浮かべる女性医師は、手元に術式展開用の青白く輝く魔導コードの束を滑らせ、慈愛に満ちた声でこう告げた。
「安心して。これからあなたの胸の奥に埋め込むのは、王国全土のネットワークとあなたを直結させるための神聖術式――標準規格の『黒曜神経核』よ。これであなたも、私たちの管理下でずっと綺麗にいられるからね」
(……なるほど。『エクリプス・コア』か)
意識の底で、俺は冷徹に笑う。
彼女の口から語られたその名称と、周囲に展開され始めた幾重もの複雑怪奇な魔導コードの配列が一致する。これから自分の肉体に何が行われるのか。それは通常の治療などではなく、王国のネットワークに強制同期し、自我を完全に管理下に置くための禁忌の心臓のインプラントだ。
(俺という端末を、強制的にネットワークの支配下に縛り付けるつもりか)
たとえ強制的な枷であっても、身体の深部にそのコアをねじ込まれるダイレクト・リンクの瞬間が訪れるなら、それは逆に相手の内部システムへ干渉する足がかりを作る絶好のチャンスにもなり得る。
最悪の状況を逆手に取るため、俺は冷たい手術台の上で次の反撃の覚悟を決め、抗うことなく静かに麻酔の闇へと身を委ねた。




