第27話 臨界点のハックと空間跳躍の簒奪
極限まで圧縮された重力場の中、カイトの小さな肉体は完全に物理的な限界(臨界点)を迎えつつあった。
視界は血の涙に染まり、真っ赤なノイズが明滅を繰り返している。
鼓膜はとうに破れ、外部の音は一切聞こえない。あるのは、自らの心臓が狂ったように打ち鳴らす絶望的なアラート音と、骨の髄から軋む凄惨な破砕音だけだ。
呼吸すら許されない高密度の空間。ほんの少しでも魔力の相殺を緩めれば、五歳の脆弱な肉の器など、一瞬で握り潰されたトマトのように弾け飛ぶだろう。
(……エラーログ、無視。……痛覚信号の遮断を継続しろ。……まだだ、まだ足りない……!)
カイトは奥歯を砕かんばかりに噛み締め、瀕死の肉体が上げる悲鳴を冷徹にシャットアウトする。
彼の意識の全ては、眼前に立つゼノンの義手から放たれる『空間歪曲魔導』の深淵に潜り込んでいた。
空間の密度数値を書き換え、重力を異常値に跳ね上げるアルゴリズム。
カイトは、前世の知識とハッキングの思考モデルをフル稼働させ、ゼノンの魔法構成を構成する青白いルーンの配列を、自らの脳内へ必死にダウンロードし続けていた。
「……死に損ないが。その執念だけは評価してやる」
ふと、カイトを押し潰していた暴虐な圧力が、嘘のように霧散した。
「が、はっ……! げほっ、ごほっ……!!」
突然の解放に、肺がむせ返るように酸素を貪る。
床に手をつき、大量の血が混じった胃液を吐き出しながら、カイトは荒い息を繰り返した。
全身の毛細血管が破裂し、皮膚の至る所から血が滲んでいる。だが、その漆黒の瞳の奥底に灯る冷酷な知性の光は、決して消えてはいなかった。
神聖術式監査局の最高位教官であるゼノンは、床に這いつくばる幼き検体を、感情の読めない氷の瞳で見下ろした。
「初日にしては上出来だ。お前の『異常性』はよく理解できた」
ゼノンが金属の魔導演算用の義手を軽く振るう。
その瞬間、カイトの全身の産毛が逆立った。
先ほどまでの「重力圧」とは違う。ルーンの配列が、より高次元で複雑なパターンへと変化したのだ。
(空間への干渉パターンの変更……!? いや、違う。空間の『座標数値』そのものを……書き換えようとしている……!)
ゼノンが感情の籠もらない声で、さらりと最高位のシステム化魔法を呼び出す。
(――アーク・コード呼出。空間歪曲魔導ライブラリ・『短距離転移』)
キィィン、と空間が軋むような鋭い歪曲音とともに青いルーンが収束し、空間歪曲魔導の応用体系――空間跳躍(転移)の術式が起動する。
「今日の訓練はここまでだ。お前には休む間もなく、次のカリキュラムが待っているからな」
景色が、ぐにゃりと歪む。
カイトの足元から空間の境界が消失し、次元の境目へと肉体が引きずり込まれる感覚。過剰な空間摩擦と、内臓が宙に浮くような強烈な吐き気を伴う未デバッグの転移プロセス。
通常であれば目を閉じ、ただその不快な感覚に耐えるだけの場面だ。
しかし、カイトは血に染まった瞳を限界まで見開き、自分自身を包み込む「転移の魔法陣」のコード構成を一瞬たりとも見逃さなかった。
(……座標の再定義。対象の質量計算。……なるほど、そういう冗長な数式で空間を繋ぐのか……ッ! 余計な摩擦やタイムラグが多すぎるが……骨組みは掴んだ……!)
視界が完全に暗転する直前、カイトはゼノンの放った空間跳躍の根幹となる『跳躍コード』のソースログを、確実に見切り、自らの魂へと刻み込んだ。
◇
ガツン、と硬い床に身体が投げ出される。
「……っ……」
転移による着地の衝撃と空間摩擦を殺す余裕もなく、カイトは冷たい石の床を転がった。
そこは光の届かない、牢獄のような狭い独房だった。鉄格子の向こう側には、松明の薄暗い炎だけが揺れている。ゼノンの姿は既になかった。
「……ふふ……あはは……」
血と泥にまみれた冷たい床に横たわったまま、カイトの小さな口から、乾いた笑い声が漏れた。
指一本動かすことすら困難なほどの激痛。全身の骨という骨に微細な亀裂が入り、魔力回路は焼き切れる寸前だ。普通の子供であれば、とうに精神が崩壊していてもおかしくない。
だが、カイトの頭の中にあるのは、肉体の損傷への嘆きではなかった。
(手に入れた……。ゼノンの『コード・シフト』、その基礎理論と……転移の座標アルゴリズム……)
まだ完全な発動には至らない。だが、ロックの掛かっていた最上位魔法のシステムに、確かにバックドアを仕掛けることに成功したのだ。
この冗長なコードを徹底的にデバッグし、無駄を極限まで削ぎ落とせば――必ず俺だけの最強の転移術式として再構築できる。
(アーク・コード……最高位教官ゼノン・フォン・グレイス。……あんたの技術は、全て俺が喰らい尽くす)
異常ログ(激痛)が鳴り響く肉体の底で、幼き簒奪者は静かに牙を研ぎ澄ましていた。




