第20話 琥珀色の杯と、小さな違和感
夕暮れの冷気がアデルハルトの石造りの屋敷を包み込む頃、執務室の机に向かっていた男が、やれやれと深く息をついた。
背の高い体躯に、鋼鉄のようなスチールグレーの髪と瞳。この辺りの領地を束ねるカイトの父親は、手元の膨大な報告書から視線を外し、窓辺に立つ妻へと目を向けた。
栗色の髪を緩やかにまとめ、オリーブブラウンの瞳を夜の庭に向けていた母親が振り返る。その手には、温かい湯気を立てるカップを乗せた木製のトレイが持たれていた。
「あなた、まだそんなに書類を抱えているの?」
「ああ、王都からの通達と、先日の巡回の報告だ。相変わらず頭の痛い話ばかりだがね」
「少し休憩になさったら? これ、あなたにも淹れてきたのよ」
母親――カイトの母は、夫の机の脇にそっとカップを置いた。そこから立ち昇るのは、領地で採れたカモミールと星見草をブレンドした、透き通る琥珀色のハーブティーだ。
夫が一口含むと、ふわっと広がる甘い林檎のような香りと、後味に残る微かなミントの清涼感が、政務で張り詰めていた脳を優しく解きほぐしていく。底に沈んだとろりとした蜂蜜が喉を心地よく潤し、じんわりと体の芯まで温めてくれる極上の一杯だった。
「ああ、美味しいな。……だが、君はいつも好んで飲んでいた紅茶ではないのだね?」
夫の問いに、母親は自身のカップを両手で包み込みながら、少し照れたように微笑んだ。
「ええ。最近、少し香りの強いものが胸につかえるようになって……それに、なんだかひどく眠くなることが多いのよ。まだはっきりとは分からないけれど、もしかしたら……カイトに、弟か妹ができるのかもしれないわ」
夫は驚きに目を見張り、次いで喜びの入り混じった優しい微笑みを浮かべた。
「そうか……それは、何よりの吉報だ」
温かな沈黙が流れた後、母親はふうっと小さく息を吐き、少しだけ表情を引き締めた。その瞳には、喜びとは別の複雑な想いが滲んでいる。
「……どうかしたかい?」
夫が妻の様子に気づき、低く落ち着いた声をかける。
「うん、少しね。さっき、カイトの部屋の前を通ったのよ。……あの子のことなんだけど。実は、いつからかしら。ふとした瞬間に、あの子がまるで大人のように……ううん、もっと何か、別の視点から私たちを俯瞰しているような、そんな不思議な違和感を覚えることが増えたの」
「違和感、か――」
妻は窓の外に視線を落とし、ため息交じりに言葉を継ぐ。
「今日もね、五歳とは思えないほど難しい顔をして、古い魔導の古文書をめくっていたわ。しかも、ただ読んでいるだけじゃない。何というか、まるで複雑な仕組みを頭の中で解体しているような、そんな真剣な目をしていたの」
夫はスチールグレーの瞳を少し細め、微かに苦笑を浮かべた。
「あいつの聡明さには、時々驚かされる。私や君の子供とは思えないほどにね」
「驚くっていうより……少し、心配になることがあるのよ」
母親はまだ膨らみのないお腹にそっと手を当て、微かに眉を寄せた。
「王都から預かった公爵家の令嬢――リア様をこの辺境で匿うことの重みを、あの子はどこまで分かっているのかしら。リア様のことだって、あの子なりに一生懸命に支えようとしてくれているけれど……」
「――ああ」
夫は妻の言葉を遮るように、しかし深く頷いた。
「分かっている。王都の監視の目が光る中、私たちがリア様を庇い、そしてカイトであの子を支えようとしている。その危うい均衡の上に、我が家の命運が成り立っていることくらい、あいつなりに子供ながらに感じ取っているのかもしれん」
父親は椅子から立ち上がり、小柄な妻の肩にそっと手を置いた。大きな手のぬくもりが、冷え込み始めた部屋の空気を和らげる。
「だが、あいつを信じよう。あの子は私たちが守る。新しく生まれてくる命もな。だが同時に、あいつ自身も……自分の大切なものを守るための強さを、もう自分の足で掴み始めているんだからな」
窓の外では、夜の闇に沈むアデルハルトの街並みが広がっている。その静寂の中で、二人の親は息子への細やかな懸念と、それ以上の深い信頼を胸に、そっと視線を交わし合った。




