第17話 平穏のレシピと報告書の行方
アデルハルト領の館の厨房は、外の凍てつく寒さが嘘のように、いつも湯気と温かな匂いで満ちていた。
煮込まれた根菜の甘い香ばしさに、カリッと焼かれたラードの芳醇な脂の匂いが混ざり合い、それだけで空腹の胃袋を強く刺激する。コトコトとリズミカルに煮える大鍋の音と、まな板の上で黒パンをザクザクと切り分ける小気味よい音が、静かな厨房に心地よく響いていた。
朝の慌ただしさが一段落した頃、そこでは若き護衛侍女のセレスと、カイトが生まれた時から世話をしているメイドのマーサ、そして腕利きの調理師であるふくよかなおばさんが顔を揃えていた。
「いやあ、今朝も冷えたねぇ。カイト様もリア様も、ちゃんと温かいものを食べてくれたかい?」
大鍋をかき混ぜながら、調理師のおばさんが豪快に笑う。その手元では、たっぷりの根菜と干し肉をじっくり煮込んだスープがぶくぶくと小さな泡を弾かせ、食欲をそそる濃厚な湯気をもうもうと立ち昇らせていた。
「はい、お陰さまで。今朝は二人とも、残さず綺麗に平らげてくださいました」
ティーカップを丁寧に拭きながら、セレスがしっかりとした口調で答える。王都の厳格な騎士団仕込みの凛とした佇まいはそのままに、彼女の張り詰めていた心拍数は、この空間の温もりに触れてわずかに緩み始めていた。
「おや、セレスちゃんは相変わらず真面目だねぇ。そんなにピリピリしなくても、ここは王都じゃないんだからさ。少しは気を抜きなよ」
調理師のおばさんはそう言うと、焼きたてで香ばしい小麦の匂いがふわっと広がる黒パンをポンとセレスの手に乗せた。かじりつけば、サクッとした皮の歯ごたえと共に、濃厚なライ麦の風味が口いっぱいに広がりそうな一品だ。
「おばさんの言う通りよ、セレスちゃん。ここは辺境の田舎なんだから、もう少し肩の力を抜いても大丈夫」
もう一つの作業台から、マーサがくすくすと笑いながら同意する。カイトの専属メイドとして彼の成長を一番近くで見守ってきた彼女は、セレスより少し年上の、優しく頼れる姉のような存在だった。
「……ありがとうございます。ですが、私の任務はお嬢様の安全を守ることですので、気を抜くわけにはまいりません」
そう言いながらも、セレスは手渡された黒パンの温もりに緊張の糸を少しだけ解放し、小さくかじりついた。まだ十代の彼女にとって、気さくなマーサとおばさんに見守られるこの空間は、王都のプレッシャーで凝り固まった思考をリフレッシュさせる数少ない居場所でもあった。
「セレスちゃんは本当に働き者で感心しちゃうわ。でもね、あの子たちがこうして穏やかに朝を迎えられるのは、あなたが上手に報告書を調整して、王都の余計な目を遠ざけてくれているおかげよ」
マーサが優しい声音でそう告げると、セレスは少しだけ照れくさそうに視線を伏せた。
「……あれは、護衛としての最善の判断をしたまでのことです。それに、あの少年のやり方は……少し型破りで驚かされますが、確かに確実ですから」
セレスが昨日の窓辺での出来事を思い出すように呟くと、マーサは満足そうに目を細めてフッと笑った。
「カイト様はね、物心ついた頃から変に大人びた目をしていて、自分のことは全部自分で考えて動こうとするような子だったの。……だけど、リア様がああして安心した顔をするようになったのは、間違いなくカイト様のおかげね」
「そうだねぇ。殺伐とした王都から離れて、あのちっこい二人がこの辺境で泥まみれになりながら笑い合ってる姿を見ると、おばさんとしてはそれだけでお腹がいっぱいになるよ」
調理師のおばさんが大鍋からお玉でスープをすくい、ぐっと顔を近づけて美味しそうに味見をする。肉と野菜の旨味が凝縮されたそのスープからは、たまらなく芳ばしい匂いがふわりと立ち上り、側にいるだけで思わず胃の腑が鳴り出しそうだった。
王都の冷徹な政治や、世界を揺るがすかもしれない巨大な魔力の脅威など、この温かな厨房には似合わない。ここではただ、胃袋を直撃する美味しそうな料理の匂いと、子どもたちの平穏な日常を守りたいと願う大人たちの穏やかな時間が流れていた。
「さあ、お昼の準備にとりかかるよ! 二人とも、あの子たちがお腹を空かせて戻ってくる前に、温かいお茶の用意をしておくれ」
「はい、分かりました!」
セレスとマーサは顔を見合わせて小さく笑い合うと、テキパキと茶器の準備に取りかかる。
凍てつく冬の風が吹き抜ける辺境の館の片隅で、温かな絆に包まれた日常が、今日も静かに育まれていた。




