第15話 報告書の重みと、護衛の選択
カイトとリアが廊下の窓辺を離れ、それぞれの時間を過ごし始めた頃。
館の一角にある執務スペースでは、リアを警護するために王都から派遣された護衛騎士のひとりが、硬い面持ちで一枚の羊皮紙に向き合っていた。
テーブルの脇では、リアの護衛侍女であるセレスが静かに控えている。インクを浸したペンを握る騎士の手が、わずかに止まった。
「――本日の魔力観測値、安定。急激な変動は認められず……か」
王都のシルフィード公爵家から命じられ、この辺境の地に赴任している彼ら護衛騎士には重大な任務があった。それは、リアの魔力が暴走の兆候を見せた際、あるいは危険な水準に達した際、即座に中央へ詳細な報告書を上げるという義務である。
もしここでリアの魔力が制御を失い、周囲に危害を及ぼす恐れが出れば、中央は容赦なく彼女をさらに隔離するか、あるいはより厳重な拘束措置をとるだろう。彼女の父親である当主とて、政治的なプレッシャーの前には例外を許されない。
「最近の観測値は確かに落ち着いているが……いつ大規模な暴走を引き起こすか分からん。定例の査定として、もう少しリスクが高めの数値を記載しておくべきではないか?」
騎士がそう呟きながら、ペン先を再び羊皮紙に向けたときだった。
その言葉を聞いたセレスの胸中で、冷ややかな怒りが小さく波打つ。
(――この人たちは、いつもそうだ)
護衛という名目で王都から派遣されておきながら、彼らが見ているのは目の前の少女の姿ではない。ただ中央に咎められないための保身と、暴走する「危険な異物」という冷徹な決めつけだけだ。リアがどれほど自分の力に怯え、恐怖と戦いながら懸命に心を保とうとしているのか、その内面を想像しようともしない。ただの厄介な爆弾、あるいはいつか破裂するかもしれないガラス細工のように扱うその冷徹な物言いに、セレスはメイドとしての礼儀の裏で、抑えきれない強い憤りを覚えていた。
「――お待ちください」
これ以上、彼女を勝手な数字で追い詰めることはさせない。
セレスは静かに控えている位置から一歩前に進み出て、冷え切った声でそれを制した。そのオリーブ色の瞳には、護衛たちの怠慢を断じるような毅然とした光が宿っている。
「セレス、お前は毎日あの少女の傍に張り付いているが、甘く見すぎではないか? あのような力を抱えている以上、中央への警戒は怠るわけにはいかない」
「甘く見ているわけではありません。ですが、現在の数値を過敏に報告すれば、王都は過剰に反応し、この地に無用な介入を招く恐れがあります」
セレスはそう述べると、今日カイトが少年としての機転と精緻な魔力制御で、リアの暴走の芽を綺麗に摘み取った光景を思い返した。あの日、暴走した絶対零度の嵐の中で彼女を救って以来、カイトは専門的な知識と独自の魔力制御で、彼女の日常を穏やかに維持し続けている。
「……あのお嬢様は今、この辺境の冷涼な環境と、アデルハルトの若きご子息による的確な手当てによって、かつてないほど安定した日々を送っていらっしゃいます。それを無視して不穏な報告書を上げれば、中央の者たちが過敏に反応し、せっかく築かれたこの穏やかな日常を無理やり引き裂きかねません」
セレスの揺るぎない言葉に、護衛騎士はわずかに眉根を寄せ、考え込むように腕を組んだ。
「……あの少年の魔力制御が、そこまで当てになると言うのか?」
「はい。少なくとも、今の彼女の平穏を守ることが、結果的に最悪の暴走を防ぐ一番の防壁となっています」
騎士はしばらく沈黙し、手元の羊皮紙とセレスの真剣な表情を交互に見据えた。やがて、彼は小さく息をつき、ペンの先を別のインクへと浸した。
「……わかった。お前の直近の観察眼と、現地での実測データを信用しよう。今回の報告書は、『現地環境および周囲のサポートにより、魔力は安定して推移している』という最小限の記述に留めておく」
その言葉を聞き、セレスは胸中で静かに安堵の息を吐いた。
騎士は新たにペンを走らせ、実際よりも穏やかな状態を示す数値を丁寧に綴っていく。王都へ送り出すためのその報告書は、公爵家に対する明らかな情報調整であり、一歩間違えば護衛としての責任を問われる背信行為だった。
だが、冷たい風が吹きつける辺境の館で、護衛としての規律と、目の前の少女の平穏を守りたいという強い意志の間で揺れる彼らの選択は、今日も静かに二人の子どもたちの日常を支え続けていた。




