第12話 朝の身支度と鏡の前の回想 〜公爵令嬢の温かなエラー〜
(——昨晩の冷や汗から一夜明け、俺の脳内会議はひとつの明確な結論を弾き出していた。
公の場、つまり大人たちの目がある場面では完璧な臣下の礼を徹底し、二人きりのプライベートな空間でのみ今まで通りの口調を維持する。彼女の精神的安定と社会的リスク回避を両立させるには、このハイブリッド運用が間違いなく最適解だ)
そんなカイトの極めて冷静な判断など露知らず。
同じ頃、アデルハルトの館の客室では、リアが柔らかな朝の光の中で目を覚ましていた。
「……ん、朝……」
王都の公爵邸にあるような、天蓋付きの豪奢なベッドではない。質素な木組みと麻布のシーツ。けれど、リアはここに来てから、一度も悪夢を見ていなかった。
「おはようございます、リア様。お目覚めはいかがですか?」
「セレス。おはよう」
ノックと共に温かいお湯の入った洗面器を運んできた護衛侍女のセレスに、リアはふわりと微笑んだ。
顔を洗い、寝着から普段着のドレスへと着替えさせてもらいながら、リアは鏡の前に座る。セレスが丁寧な手つきで木櫛を入れ、白銀の髪を梳いていく。
さらり、と落ちる自分の銀髪を見つめていると、リアの脳裏に昨夜の廊下での出来事が鮮明に蘇ってきた。
『ちゃんと髪を乾かさないと、湯冷めするぞ』
(……カイト、すごく優しかったな)
少しだけぶっきらぼうで、けれど底抜けに温かいあの声。
王都にいた頃、周囲の大人たちは皆、リアの強大すぎる魔力を恐れ、腫れ物に触るような態度で接してきた。誰もが完璧な敬語でかしずきながら、その瞳の奥には恐怖と距離感が張り付いていたのだ。
だからこそ、身分も魔力の恐ろしさも一切気にせず、「そこに座ってろ」と普通の女の子として扱ってくれるカイトの存在が、リアにとっては暗闇に差した一筋の光のように眩しかった。
「リア様? どうかされましたか? お顔が少し赤いようですが……」
「えっ? ううん、なんでもないの!」
鏡の中の自分が、ゆでダコのように頬を染めていることに気づき、リアは慌てて両手で顔を覆った。指先から伝わる自分の肌の温度が、じんわりと熱い。
いつもなら、感情の揺れと共に冷気が漏れ出してしまうところだが、カイトが整えてくれた彼女の魔法回路は、今はとても穏やかに脈打っていた。
「……ねえ、セレス」
「はい。何なりと」
「今日の私、変じゃないかしら。髪の毛、ちゃんときれい?」
「ふふっ。ええ、とても愛らしく、お綺麗ですよ。まるで雪の妖精のようです」
セレスの優しい言葉に、リアは嬉しそうに目を細めた。
早く食堂へ行こう。そして、彼に「おはよう」と言おう。
彼が自分の魔法を「綺麗だ」と言ってくれたから。温かい風で、この髪を乾かしてくれたから。
鏡に映る自分を見るのがあんなに嫌いだったのに、今のリアは、カイトに会うために少しでも可愛くありたいと願うようになっていた。
胸の奥で小さく弾けるような温かい感情の正体に、五歳の公爵令嬢はまだ気づいていない。




