第91話 12歳:Zの残影と、白亜の実験場
12年の歳月は、漆黒の瞳に宿る静謐な光をより深く、鋭く研ぎ澄ませていた。
雲海を突き抜けるように聳え立つ、白銀の魔導合金と高純度結晶ガラスで組み上げられた幾何学的な超高層タワー――。
ヴァルハイト連邦の首都中央に鎮座するその建造物は、表向きは外交や情報管理を統括する国家直属の最高峰公的機関として、圧倒的な気品と透明感を放ってそびえ立っている。
そして、その最上階――眼下に広がる首都の夜景を一望する洗練された空間。そここそが、国家最暗部たる『第0特務室』の本拠地内に設けられた、席次第1位『影』専用のプライベートバーであった。
カウンターの向こう側から、専属メイドのベルタが慣れた手つきでシェイクした一杯のグラスを静かに差し出した。
静謐な室内に、氷が繊細な音を奏でる。
「お待たせいたしました、お姉様。お好みの『トパーズ・ヴェール』でございます」
ベルタは深々と一礼すると、続いてその隣に座る少年――カイトの前へ、クリスタルグラスに注がれた透き通るような琥珀色のノンアルコールカクテルを滑らせた。
「そしてカイト様には、こちらのモクテル『アンバー・カーネル』でございます」
「……ありがとう、ベルタさん」
カイトは穏やかに微笑んで礼を言い、グラスを受け取って一口喉を湿らせた。
「ふふ、アーク・コードを脱してから、随分と雰囲気や口調が柔らかくなりましたね、カイト。以前のような尖り切った武骨さが抜けて、ずいぶんと付き合いやすくなりましたよ」
ソファーに深く背を預ける『影』が、楽しげに琥珀色の瞳を細める。
「……あの組織にいた時は、アルゴ・シミュレータで脳の訓練や精神教育を受けるような厳しい環境だったからね。そこを離れて、本来の自分に戻っただけだ」
カイトは苦笑しながらグラスを傾けた。
カウンター越しにその横顔を見つめていたベルタが、静かに柔らかな笑みを浮かべる。
「ふふ、ですがカイト様。連邦へいらしてからも、工房に籠もってボリス技師長と連日徹夜で回路を組まれる熱中ぶりは、当時の凄腕ハッカーそのものでございますよ」
「……あれは必要な開発を進めていただけだよ。ボリスの技術体系があまりに面白くて、少し時間を忘れていただけだ」
決まり悪そうに視線を逸らすカイトに、ベルタはクスリと喉を鳴らした。
「左様でございますか。……ですが、私どもがお出しするモクテルやお菓子に、年相応の穏やかな笑みを浮かべてくださるようになったのは、とても喜ばしいことでございます。あの地下要塞でカイト様の代理を務めていた頃の張り詰めた空気感を思えば……本当に」
「ベルタの言う通りですね」
『影』が優雅にグラスを揺らし、氷をカランと鳴らした。
「席次第4位の楓からも『カイト様は放っておくとお食事も召し上がらずにコードを書き続けてしまわれます。たまには外の空気を吸わせて差し上げてください』と、真顔で進言されていましてね。……ですが、こうして他愛のない言葉を交わせるようになった貴方を見ていると、あの時リスクを冒して連邦へ引き抜いた甲斐があったというものです」
「……勝手なことを言ってくれる。だが、感謝しているよ。誰かの顔色を窺うこともなく、自分の意志でリソースを使える今の環境は……正直、贅沢すぎるくらいだ」
カイトが本心を覗かせるように呟くと、『影』は満足げに琥珀色の瞳を細めた。
「貴方のその貴重な平穏を乱すようで少々心苦しいのですが……。そろそろ、本題に入るとしましょうか」
『影』が指先を軽く滑らせると、空間に高精細な立体魔導ホログラムが展開される。
「王立魔導学術都市『セフィロティス』――表向きは中立を掲げる世界最高峰の教育機関ですが、今回その学園側から直接、我が『第0特務室』へ極秘の依頼が入りましてね。どうやら、非合法魔導工作組織『黒曜の検体』がセフィロティス内に侵入しているようなのです」
「――なっ……!! やつらか……ッ!?」
カイトの息が詰まり、グラスを握る指先にぐっと力がこもる。
かつて五歳の自分を日常から強引に引き裂き、実験動物のように暗部の底へ売り飛ばした元凶――『オブシディアン・アイ』。他者の特異な魔導回路や血統データを『検体』として狩り集め、裏の権力者へ売り払う冷酷なハイエナどもだ。
「……あの連中が、今度は学園の生徒たちに牙を剥いているのか」
カイトが意識して深く息を吐き、溢れ出かけた感情を静かに押し殺して言葉を続けると、『影』は静かに頷いた。
「ええ。その『オブシディアン・アイ』が学園内に深く根を張り、生徒たちの才能や特殊な術式回路を『検体』として強奪・書き換えを行っており……裏で生徒の失踪事件が多発しているのです。学園上層部もこれを重く見ているものの、表立って動けば大沙汰になるため、外部の我々へ処理(排除)を依頼してきたというわけです」
「なるほど、学園からの極秘依頼か。ちょうどあちらの基幹ライブラリにアクセスするバックドアを探していたところなんだ。渡りに船だな」
カイトが納得したように頷くと、『影』は笑みを深め、手元の魔導端末から一つのデータファイルをカイトへ転送した。
「貴方に用意した受験・潜入用の身分証と戸籍データです。名前は――『ゼッド・アストラム』。アデルハルト領出身、十二歳。貴族と違って家系調査で足がつくリスクのない、少し病弱で目立たない完全な平民志願者の枠を確保しておきました。これでDランク合格のラインを狙って潜入していただきます」
カイトは手元の端末に映し出されたプロフィールの数値を、鋭い目つきでスクロールしていく。
「……ゼッド・アストラム。アデルハルト領の平民か。身長153センチ、体重46キロ。生体波長は減衰傾向、魔力回路に軽度の先天性障害あり……か。これなら貴族のような血統照会で引っかかる心配もないな。了解したよ。この設定に合わせて『マトリクス』の出力パラメータと生体シグナルを偽装調律しておく。Dランク最下層の受験生として、完璧に溶け込んでみせる」
プロの工作員らしい迷いのない手つきでプロフィールデータを脳内領域へインストールしていくカイトに対し、『影』は深みのある笑みを深めた。
「頼もしいですね。……なお、セフィロティス現地にはすでに我が『第0特務室』の席次第8位『針(Needle / ニードル)』こと、ハインを先行潜入させています。彼は学園の資材管理員として潜伏中ですので、現地での補給や暗号通信の受け渡しは彼を通じて行ってください」
「席次第8位のハインか。現地バックアップがいるならやりやすい。作戦開始と同時にコンタクトを取るよ」
「ええ。次元の死角(Z軸)から侵食するハッカーには、まさにおあつらえ向きのコードネームでしょう? ――最高のパフォーマンスを期待しておりますよ、カイト」
『影』が差し出した『トパーズ・ヴェール』に、カイトは静かにモクテル『アンバー・カーネル』のグラスを重ね合わせた。
カチリ、と静寂の夜空に涼やかな氷の音が澄み渡る。
表舞台の歴史の『Z軸(死角)』から、巨大な闇のシステムをデバッグするためのサイレント・オペレーションが、いま静かに始まりを告げようとしていた。




