第10話 辺境の食卓と湯上がりの回廊 〜共有されるエラーと温かな風〜
あの氷の暴走事件から数日が経ち、アデルハルトの館には穏やかな日常のルーチンが戻っていた。
夕刻。石造りの食堂には、パチパチと薪が爆ぜる暖炉の音と、香ばしく焼けた黒パンの匂いが満ちている。アデルハルト領は特産品も鉱山もない、資源の乏しい土地だ。食卓に並ぶのは、先日俺とメイドのマーサで泥を落とした根菜を使った、素朴な煮込み料理ばかりだった。
だが、シルフィード公爵家の令嬢であるリアは、湯気の立つ木の器を前にして、氷藍色の瞳をキラキラと輝かせていた。
「すごく、あたたかい匂いがする……」
「王都の豪勢な食事(エンタープライズ向けのシステム)に比べたら、味気ないかもしれないけどな」
俺が木のスプーンを手に取りながら言うと、リアは小さく首を横に振った。
「ううん。王都のお食事はいつも冷たくて、一人きりで食べるの。でも、ここは違うわ。アルベルト様も、カイトも一緒にいてくれて……お野菜の味が、とても甘くて美味しい」
煮込まれた根菜はホロホロと口の中で崩れ、大地の優しい甘みが舌の上に広がっていく。俺たちは、温かいシチューの熱で少し頬を紅潮させながら、心地よい食卓の時間を共有した。
翌日の昼下がり。初夏の風が吹き抜ける中庭で、俺とリアは並んで芝生の上に座っていた。
「いいか、リア。魔力ってのは感情で出すもんじゃない。頭の中で『出力』の上限を先に決めておくんだ」
俺は、自身の魔法回路を最適化してきた『魔法をコードとして捉える』という独自のメソッドを、リア向けに噛み砕いて教えてみた。
「カイトの言う『パラメータ』……。こう、かしら?」
リアが目を閉じ、小さな両手の間に魔力を集める。だが――次の瞬間。
バキィッ!!
「きゃっ!?」
周囲の温度が急激に下がり、彼女の手のひらから鋭い氷の柱が暴発して、足元の芝生をごっそりと凍らせて砕いた。
(やはり駄目か! プロセス強制終了!)
俺は慌てて横から魔力を流し込み、暴走しかけた冷気の供給を断ち切った。
「ご、ごめんなさい! やっぱり私、うまくできなくて……」
パニックになり涙目になるリア。公爵家の血筋ゆえに成熟しているとはいえ、彼女の中にあるのは暴れ馬のような莫大な魔力だ。前世のSEだった俺がゼロから構築したロジックを、超ハイスペックでじゃじゃ馬な他人のハードウェア(肉体)にそのままインストールするのは、さすがに無理があった。
「謝らなくていい。今の失敗で原因がわかった。君の魔力は規格外だから、俺のやり方をそのまま使うのは相性が悪いんだ。焦らず、君の体に合った制御法を一緒に探していこう」
俺が頭を撫でてやると、彼女は少しだけホッとしたように頷き、俺の服の袖をぎゅっと握りしめた。
そして夜。館の裏手にある木造の浴室は、むせ返るような白い湯気と、微かな薬草を煮出したような石鹸の香りに包まれていた。
「カイト様、お背中を流しますね」
「ありがとう、マーサ」
メイドのマーサが、柔らかな麻布で背中を擦る。湯船に張られたお湯は、俺がバックグラウンド処理で常に微細な熱魔法を走らせ、最適な温度をキープするように制御している。じんわりと芯まで染み込むような温かさに、俺はふうっと長く息を吐いた。
湯上がり。薄手の寝着に着替えて仄暗い廊下を歩いていると、向こうから同じように髪を濡らしたリアが歩いてきた。
「あ、カイト」
彼女の白銀の髪からは、ポタポタと水滴が落ちている。すれ違う瞬間、俺と同じ薬草石鹸の香りと、風呂上がりのふんわりとした温かい空気が漂ってきた。
「ちゃんと髪を乾かさないと、湯冷めするぞ」
「えへへ、カイトと同じ匂いがする」
無邪気に笑う彼女の頬は、お湯の熱でほんのりと桜色に染まっていた。
「……そうだな。ほら、風の魔法で乾かしてやる」
俺がそう言った瞬間だった。
リアの氷藍色の瞳が、ぱぁぁっ! と星が弾けたように見開かれた。
「ほ、ほんとに!? カイトが魔法で!? やる! 私、やってもらいたいっ!」
彼女は濡れた髪を振り乱しながら、ピョンッと飛び跳ねるような勢いで俺の前に身を乗り出してきた。両手をギュッと胸の前で組み、期待に満ちた熱い視線を下から送ってくる。
公爵令嬢としての洗練された淑女の振る舞いなど完全に吹き飛んだ、五歳の女の子らしい全力のリアクションだった。
「わ、わかったから。そんなに揺れたら乾かしにくい。そこに座ってろ」
「うんっ!」
静寂に包まれた夜の廊下。ちょこんと床に座り込んだリアの背後に立ち、俺は微弱な温風の魔法を指先から紡ぎ出した。
手櫛を通して彼女の銀髪を優しく乾かしていくと、リアは目を細め、喉を鳴らす子猫のように気持ちよさそうに身を委ねてくる。ぽかぽかとした温もりと、規則正しい魔力の微細なノイズ。二人の距離は、この辺境の館で確実に縮まりつつあった。




