14.存在
そこで突然、浴室のガラスの引き戸が、ぴしゃりと音を立て勢いよく開いた。昔ながらの引戸は、扉の下半分が杉の板張りになっていて、開いた拍子に板がずれて隙間が出来る。
「お客様、そろそろお時間ですが…」
長身に、少しだけ垂れた切れ長の瞳。肩まである栗色の髪を一まとめに結わえた青年が姿を現した。誰もが目を止める、端麗な容姿。
間一髪助かった。どうやらこちらの様子を窺っていてくれたらしい。
──ありがとう、岳…。
壁際に追い詰められていた俺は、ホッと肩で息をつく。岳の言葉に浴室内の片隅に、ひっそりと取り付けられている時計に目を向ければ、あと数十分で入浴時間が終わる所だった。
「本当だっ。あと、ちょっとしかないぞ! ほら、急いで出よう!」
わざとらしい棒読みのセリフ回しで、湊の肩を押し退け、急いで浸かっていた湯船から立ち上がる。すると、湊が慌てて声をかけてきた。
「あ、待てって! 大和、急に立ち上がると──」
「っ…!」
唐突に耳鳴りがして、一気に視界が白い幕に閉ざされる。立ち眩みだ。掴まるものを探って手を伸ばすが──空を切ってよろめく。目の前に床の水色のタイルが迫った。
──ぶつかる──!
せっかく木道で助かったのに、ここで自らコケるとは。
「大和!」
が、湊が手を伸ばすより先、がっしりとした腕に身体を支えられた。
「──お客さん。急に立つと危ないですよ」
「…あ…」
岳…。
岳はそのまま、背を抱えるように腕を回すと、
「あっちで少し休みましょう」
脱衣所に目を向けた。
「あ…う…」
フラフラの俺は、返事をするのがやっとだ。岳は湯船に立ち尽くす湊に向かって、
「君──湊くんだったか? 着替えたら先生に伝えに行ってくれるか? 彼は暫くここで休ませる」
「は、はい…」
湊がどこか複雑そうな顔を見せながらも、風呂から上がると、先に脱衣所へと向かった。
その後、岳は濡れるのも構わず、俺を抱き上げると、湊に続いて脱衣所へ向かう。そうして、用意してあるバスタオルで素早く俺の身体を包み、ベンチに横たえた。素早い対応に隙はない。
「じゃあ、俺。先生に伝えてきます…」
「よろしく」
岳の言葉を受けて、ジャージに着替えた湊は、後ろ髪を引かれる様子を見せつつも、教員へ伝える為に浴室を出ていった。
その背を見送ったあと、ようやくいつもの岳に戻って、
「──大和、気分は?」
「うん…。もうちょっと休めば、大丈夫だ…」
「気をつけろ? ──色々な」
俺の傍らに片膝を立てて座った。色々には、さっき湊に迫られていたのも含まれているのだろう。
「ごめん…。なんか、ほんと…」
──情けない。
顔を腕で覆う。迷惑かけ通しだ。岳はしょぼんとする俺の頭をクシャリと撫で。
「迷惑かけてるとか思うなよ? これは俺がしたくてやってることだ」
「ありがとう…」
岳の言葉に、じわりと胸が温かくなる。岳は周囲に目を向けながら、
「こっちで注意して見ていたけど、特に妙な動きをする奴はいなかったな。──ま、一部、俺の様子を窺ってる奴らはいたが。どうやら、一人じゃないようだな…」
「嫌がらせしている奴がか?」
「ああ、たぶん。怪しいのは、さっき木道ですれ違った連中だ。あれはぶつけられて転んだんだろ? ──大和は、ちゃんと脇に避けていたからな」
岳はちゃんと見ていたのだ。嬉しさと同時に、安堵感が増す。
「うん…。実は、そうなんだ。ぶつかったのは確かで…。わざとかは分からないけど」
「わざと、だろ。すれ違った連中、様子がおかしかったからな」
「やっぱり、あいつらが…?」
すれ違った時の、グループの連中の顔を思いだす。全くすまなそうな気配はなかった。
「──たぶんな。だいたい、普通なら人にぶつかったら気付くし謝るだろ? それをしないってことは、悪意があったって事だ。一人より、集団になったほうが、罪悪感が薄れるし、行動も大胆になる。一人じゃ何もできないが、集団になるとって、よくあるだろ? 卑怯な奴はどこの世界にもいる…」
「…けど、あいつらが朱莉の行動をどうして知っているんだろう? 朱莉とそこまで親しい奴らじゃない。それがどうして…」
「…誰か、朱莉に近い奴が情報を流しているんだろうな。そいつが裏で動いてる、一番の基だ」
「朱莉の事をよく知ってるのは、数人だろ? 三年の湊に一年の陽菜、いつも一緒にいるクラスの女子グループ、それくらいだ。その中に、いるのかな…」
だとすれば、朱莉はかなりショックを受けるだろう。
「湊って奴は、本当に怪しくないのか?」
岳の視線が、今さっき、湊が出ていったばかりの戸口へ向けられた。
「…あいつ、その──同性の年上にしか興味ないって、言ったんだ。だから朱莉が誰かとつきあっても、妬むことは無いと思う…」
岳は大仰に嘆息して見せたあと。
「──だから、あんなに積極的だったのか…。じゃれているにしては、おかしかったからな」
「でも、俺、なにも漏らしてないぞ? 俺のこと、二年だと思ってるはずだ」
「そんなの、関係ないんだろ」
「関係ない?」
「そうだ。好きになるってことは、そういうことだ。けど、その思いは成就しない──」
岳はそう言うと、ベンチに寝転がる俺の上に覆いかぶさるようにして、見下ろすと。
「──嫉妬深い、パートナーがいるからな?」
「たけ──」
る、と言う前に唇にキスが落ちてくる。触れ合う唇が熱い。いつもしてることなのに、なんだかドキドキしてくる。
「──湯あたり、抜けないな?」
「そっか。そのせいか…」
それだけじゃない気もするが。くすと笑んだ岳は、もう一度、触れるだけのキスを、それでもゆっくりすると。
「──さて、掃除終わり、だな? 今晩、気をつけろ? まあ、直接人がいる前で堂々とは襲ってこないだろうが…。気は進まないが、さっきの湊って奴の傍、離れるなよ? 俺も外で見張ってる」
「わかった…。てか、誰も入ってこないな? ここ」
「──ああ。掃除中にしてあるからな?」
「ええ!?」
「十分くらい、どうってことない。現に生徒のあとの掃除は必要だったからな? 大和、歩けるか?」
「うん、もう大丈夫だ」
ベンチから身体を起こし、床に足をつく。ふらつく感覚はなかった。それでも、岳は俺の背を支えながら。
「着替えたら、部屋に送ってく」
「ありがとう…」
岳の言葉に甘え、俺は素直に部屋まで送ってもらった。
◇
「大和、大丈夫だったか?」
部屋に戻ると、一番に湊が駆け寄ってきた。クラスメートもチラチラ視線を向けてくる。
岳はすでに戻って行った後。俺は頭をかきつつ、
「大丈夫だ。驚かせてごめんな?」
「先生が戻って来たら、夕方まで横になってろってさ。すみっこに布団敷いてあるから」
部屋は十畳ほどの広さで雑魚寝だった。とりあえず、それぞれ用意されたマットレスで、自分の場所を確保している程度。木道の時にいたグループは、ありがたい事に別室だ。
俺のマットレスの横には、ぴっちり、もう一つのマットレスがくっ付いている。それを、まじまじと見下ろし、
「──これは?」
「俺が隣なら安心だろ? そっち側は壁だし」
湊は得意気だ。
──まったく。
「別の意味で不安だな…」
「なんだよ。襲うとでも思ってんのかよ?」
「…さっきの風呂場での様子じゃ、そう思っても仕方ないだろ?」
冷めた視線を送る。湊はすまなそうに、顔の前で手を合わせると、
「ごめん。つい、調子に乗ったのは認める。──けど、だからって襲わないって。無理強いは嫌いだし。──けど、あれ本気だからな。考えとけよ」
「軽く言うなぁ…。とりあえず、この件が終わったらちゃんと話す。それまでは、今まで通りでよろしく」
「なんか、終わったみたいな言い方だな…?」
「ほら! もうお終い。今は朱莉の件が一番だ」
「わかった…。ほら、とにかく横になってろって。なにもしないから」
「ほんとだぞ?」
俺は疑いの眼差しを向けつつ、シーツの敷かれたマットレスにごろりと横になった。他に毛布があって、こちらにもカバーがつけられている。それをたくしあげ、身体を覆った。
山小屋では水は貴重だ。だから大きな物は洗濯できない。その代わり、こうして汚れよけにカバーをかけたり、シーツを敷くのが一般的だ。が、大抵は、自身の持ってきた寝袋に潜り込む者が多い。
──学校登山じゃ、流石に寝袋まで用意できないしな。
下に降りる時、皆で手分けして汚れものを背負って降りるのだ。本格的に忙しいシーズンに入れば、また手伝いをお願いされるだろう。今回の件もある。
──来年は、早めに手伝うか。
朱莉は女生徒らとずっと一緒にいた。女性教員も同室となっていたから、見張りの必要はなく。
だいたい、山小屋の中は祐二と岳が見張っている。妙な動きをすれば直ぐにばれるだろう。何にしても、
──岳がいてくれる。
これ程、心強い事はない。
俺はひとつ息をついた後、安心して目を閉じた。
◇
──大和を守りたい。
いや、俺が守るんだと湊は心に強く思う。
その大和は、傍らで健やかな寝息を立てていた。年下の癖に、妙に落ち着いている。
──俺に──この俺に迫られたのに、顔色ひとつ変えなかった。
いや、焦ってはいたのだ。が、意識はしていなかった。顔も赤くならない。
──まるで、子供扱いだ。
それに、もう一つ、気になる事がある。二年の女子が、こぞって黄色い声を上げていた相手。俺より長身で、やたらと顔が良く、身のこなしも、スマートな。
そう言えば、名前を聞いていなかった。
とにかく、気がつけば大和の側にいつの間にかいて、誰よりも先に危機に手を差し伸べる。
──気にくわない。
俺がああなりたいのに、先を越される。
眠る大和の顔を見つめながら、心に決めた。
──今度こそ、俺が大和を守る。
そっと、その頬に指先で触れた。
◇
「大和、夕日見るって」
夕方、湊に軽く肩をゆすられ、目を覚ます。意外にしっかり眠っていたらしい。
「ん…、わかった」
すでに他の生徒は外に出たのか、姿が見えなかった。部屋にいるのは湊だけだ。上着を手渡され、寝ぼけ眼で先に立つ湊に続く。
玄関先で靴を履きながら、事務所内の様子を窺ったが、岳の姿はなかった。丁度、夕食どきだ。食堂で準備に大童だろう。
「大和?」
靴を履いて先に待っていた湊が、声をかけてくる。
「今行く」
急いで靴ひもを結ぶと、外に出た。
小屋を出てすぐのテラスは人でいっぱいだった。ここもいいが、実はもっとよく見える場所があるのを知っている。
朱莉は女子らとともに、仲良く最前列で陽が沈むのを見守っていた。声をかける必要はないだろう。
「湊、こっちもよく見えるぞ…」
「どこ?」
チョンチョンと、肩を叩いて控えめに声をかける。人垣を背伸びをするようにして避けていた湊は、俺の言葉に不審そうだ。ここより他に、よく見える場所などないだろうと言う顔をしている。
それでもその袖を引いて、こっちと皆の後ろへと後退させた。
「あっちの、突き出した所から見るのがいいんだ」
「そうなのか?」
湊は首をかしげる。それは、よく見えるのか? という、問いかけより、なぜ、知っているのか? という、問いかけの方が近い。
どうして知っているのか、それはこの件が終わったら話すつもりだ。それが、湊への答えでもある。
「…ある人から教えてもらったんだ。そこが一番だって。とっておきの場所だから、内緒だぞ?」
そこは岳から教えてもらった場所だ。山小屋付近で写真を撮っていた岳は、あちこちで撮った末、ここが一番と知ったのだとか。それは確かで。
「わぁ、ほんとだ…」
いつもちょっとひねくれている湊が、素直に感嘆の声を漏らした。
皆のいる所より、一段高い岩場。周囲に物置小屋があるから、先に進めないように見えるが、回り込めば高い場所に出るのだ。
そこから眺めると、まるで自分が宙に浮いているかのように感じる。視線の先、連なる山々の向こう、僅かに湧き出た雲と山の上に、今まさに陽が沈んでいくところ。
見つめる湊の横顔はキラキラと輝いていた。それは、いつかの岳のそれと重なる。
『綺麗だろ?』
そう言って、囁くように口にして、こちらに向かって笑んで見せた岳を、今でも鮮やかに思い出すことができる。あれは、俺が皆の前から姿を消した後のこと。後日、写真を撮りに山へ登ってきた時の出来事だ。
あの時の出来事は、今でも思い出すと、胸に鈍い痛みをもたらす。二度と、岳とは会えないと思っていた。それが、迎えに来てくれたのだ。
もし、あの時岳が来てくれなかったら、俺は二度と自分から会いに行くことはなかっただろう。
──でも、そんなことにはならなかった。
俺の傍らには岳がいる。夢みたいな話だ。その精一杯で俺を好きだと伝えてくれる。
こんな未来が待っているなんて、あの時の俺は想像すらしなかったのだ。
「──ここ、教えてくれたのって、誰?」
太陽がすっかり山の向こうに吸い込まれ、辺りに夕闇が迫りだし、皆、三々五々、中へと戻っていく。ずっといると底冷えしてくるからだ。
湊は真面目な顔をして尋ねてくる。薄々何かを感じ取っているのだろう。
「俺が、大切に思っている人からだ」
大切で、失いたくないと思う人。自分を犠牲にしても、助けたいと思う相手だ。
「ふーん…」
湊はそれ以上、尋ねてくることはなかった。




