10.辞書
次の日、徒歩と電車で高校に向かうと、校門前で湊に出会った。眠いのか瞼が落ち気味だ。セットしたはずの髪が、いつもより決まっていない気がする。
「…はよ。大和」
「おはよう。湊」
本来なら『先輩』をつけるべきなのだが、湊はそれももういいやと諦め、敬称をつけなくともいいと言った。ため口も許可したのだ。今更、必要ないと判断したのだろう。
湊は俺を上から下まで見たあと、
「──電車? ああ、昨日、自転車置いてったからか…」
「そ。湊は寮だから近くていいな?」
並んで校舎へと向かう。傍らを生徒が話しながら、または足早にかけていく。
この高校の芸能コースはその筋で有名らしく、人気もあって遠方からでも生徒が集まってくる。普通に通学すれば、小一時間かかる者もいて、家を出て寮で暮らす者も多い。湊もその一人で、実家は隣県の海沿いという事だった。
湊はなんとか保っていた髪を、更に乱雑にかきあげながら、
「近いけど、自由がないって。昨日だって、レッスンだからって言ったから許可が下りたけど、いつもは午後六時門限だからさ。朱莉はいいよなぁ。どれだけ遅くなったって、平気だろ?」
「──まあな。けど、それはそれで…。まだ高校生なのに、あんまり遅くまで出歩くのはどうかと思うぞ」
しかも、朱莉は黙っていれば可愛い。流石、俳優を目指すだけあって、その辺のアイドルと肩を並べる程だ。幾らお供がつくとはいえ、そんなひと目を惹く容姿で、夜半に出歩くのは、如何なものかと思う。そんな俺を面白そうに見つめたあと、
「…大和、時々、言うこと爺ちゃんだな?」
「爺ちゃんじゃない。大人と言ってくれ」
「大人、ねぇ…」
湊はしげしげと俺を見つめたあと。
「なんかさ。大和って年下の癖に、どっか落ち着いてんだよなぁ…」
ドキリとする。
──バレたのか?
二十三才が化けているのだ。やはり、不自然な所があるのかと、一瞬、固まったあと、恐る恐る傍らの湊を見上げる。
「そんなこと、ないだろ? 俺はれっきとした高校二年生だぞ」
セリフが浮く。胸を張ってみるが、言葉とは裏腹に、イヤな汗が背中を流れ落ちていく。顔は引きつっていたに違いない。
「そうなんだけどさ…。俺──」
湊が言いにくそうに、何か口にしかけた所で、頭上で音を聞いた気がした。ハッとして顔を上げれば、黒い何かが落ちてくるところ。
「! あぶな──っ!」
咄嗟に湊を押し倒し、その頭をかばう様に覆い被さった。と、同時に、先ほどまで立っていた場所に、何かが重い音を立てて落ちる。
「──?」
身体を起こすと、俺と湊の横、頭上やや右上のアスファルトに一冊の本らしきものが落ちていた。高い所から落とされたせいで、衝撃で背表紙が外れ、数ページが風に舞っている。
よくよく見れば、それは分厚い辞書で、ページが黄ばんで表紙の角も丸く削れていた。古いものだと見て取れる。
──なんで、こんなもんが……。
すぐに落ちてきた方向、校舎上部を見上げた。丁度、四階建ての校舎横の道を歩いていた所。素早く見渡したが、窓は開いているものの、どの窓にも人影はなかった。
あっけにとられた湊は、俺の下敷きになって地面に尻もちをついたまま。
「…なんで、辞書?」
「わざと、だろ。これは…」
いたずらにしてはたちが悪い。避けなければ身体のどこかに当たってケガをしていたはずだ。運悪く、頭にでも当たれば、どうなっていたか。
文庫本程度ならいざ知らず──それでも痛いだろうが──こんな分厚く重い辞書が当たれば、無傷ではいられない。
「──大和への嫌がらせ、か?」
「…ほかに思い当たらない。湊が狙いじゃないだろ」
俺は湊の肩を軽く叩いたあと、立ち上がって辞書を拾い上げた。さらに数枚が風で飛ばされる。
「ものを大事にしないのは、いただけないな…」
辞書は知識を広げるためのものであって、ひとにぶつけるためのものではない。湊は座ったまま、黙って見つめていたが。
「…朱莉の彼氏、だからか?」
「だな。──どんな思いがあるにせよ、これはイタズラじゃ済まされないな…」
辞書についた埃を払い、丁寧に閉じると、風に舞った数枚も拾い集めた。背表紙にはかなり古びた番号の振られたシールが貼られている。図書館の所蔵となっていた。
「──あとで、図書館で聞いてみよう。持ち出した人間が分かるかもしれない」
「どうだろうな。勝手に持ち出していれば、誰かなんてわかんない…」
「それでも、一応な?」
俺は片手に持った辞書を軽く振って見せた。
◇
「ええと…。それはもう、廃棄にしたもので…」
昼休み、体育館裏の倉庫に集まると言う湊に朱莉を任せると、校舎二階にある図書館へと向かった。陽菜は他に予定があって来られないらしい。
図書館の係をしていた眼鏡の女子生徒に尋ねると、パソコン端末片手に番号を検索し、そう口にした。廃棄する本は一塊にして、図書館の出入り口のケースに入れている。そこから失敬されたものらしい。
「あそこに置いてあれば、誰でも持っていっていいんです。だから、誰が持っていったかは、分からなくて…。一応、声はかけるように、お願いはしているんですが…」
「そっか、わかった。ありがとう」
「いいえ…」
辞書を置いて、図書館を後にする。辞書は生徒が預かってくれた。あとで生徒が直して、またケースにいれておくと言う。背表紙が外れているが、紙面は綺麗だ。読むのに問題はない。
犯人は分からずじまいだ。けれど。
──とうとう、行動に出たな。
あれだけあからさまにべたべたしているのだ。相当、イライラしていたに違いない。
しかし、脅しにしてはかなり攻撃的だ。今まで耳にしていた嫌がらせとは明らかに違う。相手にケガをさせても構わないと思っている節があった。そんなことになれば、大ごとになるだろうに、気にしていない、と言う事だ。
──下手をすれば、逮捕だってありえるのに。
理性の働かない、感情任せの行動だとうかがえる。あとさき考えない、子どもがやりそうなことだった。
──とにかく、これで見つけやすくなったな。
動けば尻尾も掴みやすい。俺は意気揚々と、朱莉と湊がいる体育館裏の倉庫へと戻った。──が、待っていた朱莉と湊の表情は重い。
「──なあ、今朝の、先生には言ったのか?」
俺の顔を見た途端、湊が尋ねてくる。今朝の件は、取り敢えず楠と担任の福田には伝えてあった。
「ああ、うん。伝えてある…」
何かあれば、楠やこの件を知っている者に、報告するように言われている。これは、朱莉も承知しているはずだ。その朱莉はうつむき加減で、手元を見つめている。
「なら、いいけど…。今さっき、またメッセージがあたって。な? 朱莉」
「なんだって?」
「…別れろって、それだけ…」
朱莉の面持ちは暗い。湊は顔をしかめると、
「おまえ、これからもきっと狙われるぞ? 今、朱莉にも話したんだけど、学校休んだらどうだ?」
俺は咄嗟に朱莉の横顔を見た。
「そんなわけにはいかないって。俺は朱莉を守るために来たんだぞ? その俺が逃げたらダメだろ。ここにきた意味がない」
「そうは言ったって、今朝みたいな事があれば、下手したら大怪我だってする。犯人は朱莉を傷つけることはないんだ。おまえがいなくたって大丈夫だって。今までも、それでなんとかなってたんだし…」
「でも、犯人を見つけなきゃ、これは終わらない。朱莉は、ずっと見張られたまま、自由にできないんだぞ? そんなのおかしいだろ? ──心配はありがたいけれど、俺は大丈夫だ」
すると、湊はぐっと唇を噛み締めたあと、
「大丈夫じゃない! 大怪我負ったらどうすんだよ!」
珍しく、声を荒げた。
「大丈夫だって言ってる!」
俺も負けじと声を張る。互いに眉間にシワを寄せ睨みあった。と、そこで予鈴が鳴る。仕方なく睨みあいを止めると、
「──とにかく、今まで通りでいくからな」
「勝手にしろっ」
湊はそう言い捨て先に出ていった。その背を見送ったあと、朱莉を振り返って、
「朱莉、湊はああ言ってるけど、俺は降りるつもりはないからな?」
「うん…」
俺たちの間に挟まれた朱莉は、何か考え込む様にして、その後は押し黙っていた。
その日の放課後は、特に集まる事もなく、朱莉は帰宅し、俺も帰途に就く。湊はその日、帰るまで顔を見せなかった。
◇
「──で、なにがあったって?」
夜遅く、仕事を終えた岳がリビングに入ってきた。
楠へ朝の件を連絡した際、岳へは楠から連絡すると言っていた。ただ、詳しいことは何も話していないらしい。岳からは折り返し、高校から帰ってきたら話を聞くと連絡があった。だから、詳しいことはなにも知らない。
今日は真琴も亜貴もいて、皆で先に夕食を食べ終えていた。その後、ソファでくつろいでいた二人に、先に今日あった出来事を話していたのだ。
岳の夕食準備のため、キッチンに立って、鍋の野菜だけシチューを温めながら──これは先に多めのバターで野菜を軽く炒め、鍋に蓋をして蒸した後、小麦粉を入れ炒め、牛乳でのばしたものだ。優しい味がする、の典型だ──返事をする。
「──うん。空から辞書が降ってきたって話」
「辞書…?」
岳が怪訝な顔をする。
「そう。多分、教室から投げたんだと思うんだけどさ。急いで見上げたけど、誰の姿もなくってな…」
「──てか、もうやめなよ。大和。危ないよ」
ソファから亜貴が身を乗り出すようにして、声を荒げる。湊と同じ反応だ。
「当たっていたら一大事だ。怪我がなかったのが幸いだが…」
真琴も表情を曇らせた。
「けど、まだ犯人が誰なのかわかってないし…。捕まえるのは無理でも、誰なのか、見当はつけないと…」
中途半端で投げ出すつもりはなかった。
食卓に着いた岳の前に、温めた深めの皿にもったシチューを置く。それだけでは足りないから、鶏もも肉の塩焼きも追加してあった。
こちらは皮目を下にして、フライパンでじっくり焼いてぱりぱりにした、見た目にも食欲をそそる逸品だ。パンかごはんを選択できたが、岳はいつもごはんだ。
最後にてんこ盛りにご飯を盛って、傍らに置く。他にはレタスとトマト、きゅうりのサラダ、大根の漬物がつく。
「──その後は?」
岳が先を促した。俺は食後のお茶の準備をしながら、
「朱莉あてにメッセージがあったくらいだ。別れろって」
「別れなければ、またあるっていうことだな…」
「だと思う…」
俺は岳の顔色を窺った。しかし、そこからは何も読み取ることができない。それが余計に岳の今の思いを表している様だ。岳は、言葉を続ける。
「このまま、大和に目が向けられている間は、他に害は及ばない。──そこは安心していいだろう」
「うん…」
「この計画、最後までやり切るんだな?」
その思いは変わらない。俺は大きく頷くと、
「──やる」
「…だったら、これからは、どんな時でもぜったいに一人にはなるな。誰か人目がある状態でいろ。──そうすれば、何かあってもすぐに対処ができる」
「わかった」
「──ちょっと待ってよ。なにかって、怪我とか、そう言うこと?」
亜貴が割って入る。岳は当然とばかりに頷くと、
「ほかに何がある? 相手は大和を朱莉から引き離そうと、できるだけ怖がらせようとするだろう。怪我もかまわないってところだろうな。──だから、なにか不測の事態があっても、側に人がいれば直ぐに助けてもらえる、そう言ったんだ」
「そんな、危険な目にあって…。兄さん、それでいいわけ?」
亜貴は食って掛かるが、俺は止めに入った。
「──いいんだ。これは俺がわかった上で引き受けたことなんだ。それに、岳だって十分理解した上で、最善の方法を口にしたまでで──」
「それで、大和に取り返しのない事が起こったらどうするんだよ? 兄さんがやめろって言えば、大和はやめるだろ? なんで言わないんだよ」
「──言わないな」
「どうして?」
亜貴の問いかけに、岳は皿にスプーンをいれ、残り最後の一口を口に運ぶと。
「大和は──俺の所有物じゃない。大和には大和の人生がある。俺が危険な仕事を引き受けた時も、大和はすべて理解した上でとめなかった。──それは、大和もそう思っていたからだ。例え危険があると分かっていても、それを選んだ俺を尊重した。──だから、俺も同じように大和を尊重する。好きな様にやらせるんだ」
「そんなの──っ!」
「亜貴、もうやめておけ。これは、二人の間のことだ。俺たちが口出しすることじゃない」
真琴が見かねて声をかけてきた。確かにその通りで。決めるのは俺と岳だ。亜貴は言いかけた言葉を飲み込むと、
「…俺は、大和が傷つくのを見たくないだけだ」
「ありがとうな、亜貴。そう思ってくれるの、嬉しいよ。…けど、決めたことなんだ。犯人が見つかるまで、やめるつもりはない。──ごめんな? ちゃんと気をつける。な?」
「……大和のバカ」
「ごめんて」
俺は岳にお茶を出すと、そのままソファに移って、頬を膨らます亜貴の隣に座り、その頭をぽんぽんと軽く叩いた。さらさらした髪が手に心地いい。
「確かにタケの言う通り、ひと目のある場所にいた方が賢明だな。些細な事でもいいから、今後も報告は忘れないように。──特に岳にはな?」
「…うん。わかった」
俺は黙ってお茶を口にする岳に目を向けた。岳はあまりに怒りが頂点に達すると、黙る癖がある。黙って無表情になるのだ。
今がそれだ。怒っているのは、俺に対してではなく、犯人に対してだ。それに──たぶん、自分自身に対しても。大切に思う相手を、守りきれない事の不甲斐なさ。
──俺だって、同じだ。
岳がヤクザの世界に戻った時も、ネパールの高山で行方不明となった時も。
──他にも沢山。
岳が危険な目に遭っていると分かっていても、守ることが出来なくて。やれることがほんの僅かで。自分の力の無さを、痛感した。
──あの時の俺と、一緒だ。
岳の思いがわかるから、余計に早く犯人を捕まえ、この件を終わらせたかった。
◇
寝る段になって、俺はベッドに横になった岳の傍らに正座した。謝ろうと思ったのだ。──が。
「…大和、いい」
「けど…」
「いいんだ。──いいから、寝よう」
そう言うと、俺の腕を引いて、無理やり布団の中に引き入れた。そのまま抱き締めると、髪に頬を埋めてくる。そうすることで、自分の中にあふれる思いを無理やり、押しとどめているように思えた。
──俺のために、自分を抑えて。
そう思うと、目頭が熱くなって、鼻の奥がツンとした。俺はぎゅっとその胸元を掴んで、
「岳…。ごめん。──大好きだ…」
そう口にする。岳の動きが一瞬止まって、また抱きしめてきた。
──岳、ありがとう。
今の俺に言えるのは、それだけだった。




