第29話 最後のバグの名前は、オーウェン
空の彼方、誰も手が届かない純白の空間から神様が一方的に突きつけた物理的な世界の死の宣告。
王宮地下のトラブルシューティング部門、その限界まで低く圧迫感のある天井の中央に冷酷に吊り下げられた巨大な赤いタイマーは、情け容赦のない重低音で新世界アルゲリアの終わりへのカウントダウンを刻み続けていたッス。
『14:55:10』
残り時間はついに十五時間を割った。
ほんの少し前まで全ての絶望的なスパゲッティコードを手作業で解きほぐし、システム全体の無停止デバッグの完了率が七十五パーセントという光輝く勝利のラインに到達したことで、この薄汚くて息苦しい地下部門は割れるような奇跡の歓喜に包まれていたはずだったッス。
ブォォォォォォォン……ッ!!!!!!
だがその現場の誰もが信じて疑わなかった歓喜を、地の底から湧き上がるようなサイレンが一瞬にして叩き潰した。
全てのエラーモニターが不吉な音を立てて完全にブラックアウトし、直後に血が凍りつくような真紅一色に染まり上がったッス。
それはただの警告アラートなんかじゃない。システム全体そのものを一瞬で飲み込むような、果てしなく超大な質量を持った巨大な何かが外部から新世界のメインサーバーの心臓部へと強引に侵入してきたことを告げる最悪の警鐘だったッス。
「な、なんだッ!? 何が起きてるんだ!? 冷却システムが長時間のデスマーチで限界を超えて完全にイカれちまったのか!?」
ドランさんが慌てて太い腕でメインバルブを力任せにひねるが無数に並んだモニターの真紅の光は一向に消える気配がない。警報のボリュームは上がる一方だった。
「……ちぃっ! 違う、物理的な熱暴走じゃねえ! ありったけのシステムログを裏から引っ張り出してみろトカゲ!」
ガルムさんが震える両手でコンソールを強く叩き、恐るべき速度で波のように流れる赤いコードの大群を目を血走らせて睨みつけたッス。
『各部、被害状況を直ちに報告しろ!! 一体何というバカげた規模の質量のアクセスだ、私の最大出力で作った魔力結界がいとも容易く三層まで一瞬で食い破られたぞ! 敵の実体すら掴めん!』
通信モニターから王立物理セキュリティ部門のトップである四天王のザルガンが、今まで聞いたこともないような余裕を失った怒号とも取れる声で吠えたッス。
『こちら情報統制局のアタシの管轄でも異常事態だよ! モブやNPCたちの認識パラメーターが強制的に上書きされようとしてる! いくらなんでも広報のデマ宣伝でごまかせるレベルじゃないって! みんな空が血のように赤く染まるのを見てパニックになって狂っているわ!!』
『私の財務の承認システムも完全にダウンした……! 市場に流通させていた回復ポーションの魔力構造式が根こそぎ腐敗処理へと強制的に流されている……! これは単なる自然発生によるシステムの老朽化エラーなんかじゃないぞ! 何者かの強烈な殺意を持った明確な攻撃だ!』
ソシアとドレインもそれぞれの拠点である上層部から、全く信じられないというような焦燥と悲鳴を寄こしてきたッス。
王宮の中枢を担う四天王たちの管轄がわずか数分で次々と陥落の危機に瀕している。
「……システムから自然発生したバグじゃないとすれば、この化け物みたいにデカいコードの塊は一体何なんスか!?」
俺が全身を震わせながら目の前のガルムさんの小さな背中に問いかけた時。
『判明したわ。……信じられないほど醜悪なコードよ』
ノイズまみれの通信回線を通じて魔力ネットワークを監視していたレイナさんから、ひどく冷めきったけれどその芯に燃えるような激しい嫌悪感をはらんだ声が地下室に響いたッス。
『世界の深層コアにいつの間にか未知の巨大なゲートが開いているわ。そこから凄まじい勢いで極めて純度の高い悪意を持った黒いコードが、まるで泥を吐き出すようにシステム全体へと容赦なく侵食を開始してるの。自己増殖型のルートキットよ』
「ルートキットだと……?」
「ええ。そしてその最も深い部分に刻まれている世界管理者権限のID……。見覚えがあるどころの騒ぎじゃないわ。ガルム、あなたも自分で直接その目で確認した方がいい」
レイナの殺気立った言葉に従ってガルムさんが手元のキーボードでターミナルを直接激しく叩き、その巨大な悪意の塊のコアログを深層から強引に抽出しメインモニターに強制的に可視化させたッス。
そこにはたった一行だけ。
真っ赤な血のような俺たちの全てを嘲笑うかのような太い文字でこう刻まれていたッス。
『Owner ID : Owen_Vincent』
「……ッ!! オーウェン!!!」
ドランさんとトカゲの先輩が同時に心の底からの怒りの絶叫を上げたッス。
オーウェン・ヴィンセント。
つい先日までこの王宮の筆頭アーキテクトとしてふんぞり返り、現場の俺たち泥臭いインフラ屋をボロ雑巾のようにこき使ったクソ野郎。
俺たちの命懸けの手柄を全て平然と横取りして自分の出世や権力欲のためにこのアルゲリアのシステムを私物化し続け、最後は神様との直接直接交渉で裏をかかれて全てのシステム権限を剥奪されて王宮から物理的にも追放されたはずの前上司。
「あのクソバカ野郎のIDだと!? 奴はもう王宮から完全に追放されて存在すら消えたはずじゃねえのか! 復讐のために外からハッキングでも仕掛けてきたってのか!?」
「……いや違う。あいつがこの深層コアに自分が追放されて権限を失ったら自動で起動する時限式の巨大なウイルスを、自分の身を守るための最後の切り札としてずっと前からコッソリ仕込んでいたんだよ」
ガルムさんがギリッと奥歯が砕けそうなほどの強い力でギリギリと歯を食いしばったッス。
「システム全体を完全に自分の道連れにするための悪意しかねえ自己増殖型の最悪のルートキット。……あの時、神様に自分のコードを否定されたのがよっぽど腹が立ったんだろうな。自分が最底辺に落ちて世界から消えてなくなるなら、この世界も俺たちが血反吐を吐いて必死こいて直した努力も、跡形もなく全てを一緒に破壊してめちゃくちゃにしてやろうっていう、底知れなく腐りきったどうしようもない執念としがみつきの塊だ」
モニターの向こうの四天王たちも完全に怒りで言葉を失っていたッス。
かつて魔王軍として力で世界を滅ぼそうとしていた彼らでさえ、自分が無能だと糾弾された腹いせだけで自分でも制御できないウイルスで世界そのものを内側から食い破ろうとするような、そんな純粋で卑劣なだけの悪意は持ち合わせていなかったからッス。彼らには彼らなりの誇りがあったから。だがオーウェンにはその誇りすらない。
「ふざけんな!! あの野郎、生きてる時も現場をさんざんめちゃくちゃにして苦しめておいて、死んで消える時まで俺たちの足を引っ張るのかよ!!」
トカゲの先輩が手近にあった予備パーツの空箱を思い切り壁に蹴り飛ばしたッス。
天上にある巨大な死のタイマーが無情にも『12:30:45』を刻んだッス。
「今更死人の亡霊に文句を言ってる時間は一秒もねえ! あのデカい自己増殖バグを俺たちの泥臭い手ですぐに手動でデバッグしてやるぞ!!」
ガルムさんが怒りを直接叩きつけるようにキーボードに飛びつき、凄まじい速度でウイルスを隔離するための最強の修正パッチのコードを書き始めたッス。
だが。
「喰らえオーウェンの亡霊! ターミナル・エンターッ!!」
ガルムさんがエンターキーを強く弾き幾重にも防御を施した緑色の修正パッチが、システムの深層コアに向けて大砲のように撃ち込まれた瞬間。
『Error : Access Denied』
弾かれたッス。
ガルムさんの放った最高純度の修正パッチはオーウェンの巨大なルートキットの表面に触れる直前で、見えない壁に阻まれたように全て無効化されて虚しく霧散したんス。
それどころかルートキットはガルムさんのパッチの書き換えロジックを即座に学習して吸収し、真っ赤な触手をグチャリと伸ばすようにして今まで正常だった部分のシステムコアへとズルリと逃げ込みながら倍の速度で増殖を始めたッス。
「なっ……! 効かねえのか!? ガルムの組んだコードが現場で丸ごと弾かれるなんて今までで初めてだぞ!」
ドランさんが大粒の冷や汗を流して愕然と声を震わせたッス。
「……くそっ! やはり俺が下層から直接パッチを当てようとしてもコードの形を瞬時に変えて全く別のコア領域へ即座に逃げ隠れやがる! しかも周囲の正常なコードを破壊して自分のための防刃壁にしながら増殖する、一番タチの悪い学習回避型のウイルスだ!」
ガルムさんが愛用のキーボードをギリッと強く握りしめ床にツバを吐き捨てるように言ったッス。
「……思い出すぜ。第三インシデントの時にミスをした奴が俺に全ての責任をなすりつけてスケープゴートにした時の最悪の手口と同じだ。問題が起きて俺が直しに行けば、真っ先に誰よりも早く逃げ隠れして自分だけ安全な場所に移動して周りを無数に犠牲にする。……どこまでも卑怯でお前らしい、ヘドが出るほどのクソみたいな仕様のコードだぜ、オーウェン」
ガルムさんの低い声にはかつての因縁と底知れない苦いドス黒い怒りが深々と滲んでいたッス。
その間にもオーウェンの怨念の塊であるルートキットは俺たちの世界をどんどん無作法に食いつぶしていく。
メインモニターに表示されている俺たちの希望だった修正完了率の数字。
さっきまで俺たちが地獄のデスマーチの苦しみの中でみんなで肩を組みながら七十五パーセントという勝利ラインまで押し上げた、その血と汗の結晶である歓喜の数字が。
『74%』……『73%』……。
ボロリ、ボロリと嫌な音を立てて逆行して無慈悲にそして急速に削られ始めたんス。
積み上げた巨大なトランプタワーが崩れるように、必死で直した世界が再び崩壊に向かって坂を転がり落ちていく。
「だ、ダメだ! このままじゃタイマーの十五時間のリミットが来る前に、世界がオーウェンの狂った執念に真っ先に食い尽くされてパンクしちまう!」
トカゲの先輩が自分の頭の鱗をかきむしりながら悲鳴のような声を上げたッス。
インフラ屋最大の手動のデバッグや渾身のパッチが一切通用しない学習する最強の敵。
まさにこの世界に残されたどうしようもない最後の大ボスだったス。
そんなもはや手立てのない完全な絶望感が再び地下室を支配しかけたその時だったッス。
ガンッ!!! ガンッ!!!
背後の隔離室から分厚い防護ガラスを思い切り強く叩く凄まじい衝撃音が響いたッス。
俺たちがハッと振り返ると。
そこにはつい先ほど自分の存在意義を見出して涙を流し、そしてバグから意志ある存在へと立ち上がった伝説の聖剣を固く握りしめた新勇者、HERO-010が立っていたッス。
彼は分厚いガラス越しに俺たちを、いやその中心にいるガルムさんを真っ直ぐに見つめて叫んでいたッス。
「ダセル……! オレヲ、ソトヘ、ダセ!」
その片仮名混じりの合成された音声は、つい数時間前に存在理由を問うていた時よりも明らかにずっと人間の声に近く、流暢で芯の通った力強いものに変わっていたッス。
彼の中の自我が急速に成長し人間と同じ確かな形を取り始めている何よりの証拠だった。彼は世界を守る勇者というプログラムを自分自身の誇りとして選び取っていた。
「オレガ、ヤル……! アノ敵ヲ……オレノ、剣デ、斬ル……!」
俺たちを守るように彼はガラス越しにモニターに映る真っ赤なオーウェンのルートキットへと、その聖剣の切っ先を迷いなく向けたッス。
「ば、バカ言え勇者のお兄ちゃん! お前の剣は物理的なバグを壊すためのものであって、システムコアの奥底に逃げ込む見えないコンピューターウイルスになんて当たるわけが……!」
俺が必死に止めようと叫んだ時。
「……いや。もしかしたら」
ガルムさんがふと顔を上げて、信じられない魔法の杖を見るような目つきで勇者の持つ伝説の聖剣をじっと見つめたッス。
「あいつの持っている聖剣のデータはただの綺麗な装飾や見せかけの攻撃力じゃない。神が世界を救う勇者のためだけにこの世界のシステムの絶対法則をそもそもねじ曲げて設計した特級アーティファクトだ。……つまりあの剣ならオーウェンという一アーキテクトなんかのちっぽけな権限を完全に超越して、神の作った根幹コアに直接アクセスできる最上位の物理権限を持っている可能性がある」
その言葉にドランさんとトカゲの先輩が目を大きく見開いたッス。
「おいリーダー……! お前、まさか……あいつをこの安全な設計の隔離室から外の領域に直接出す気か!?」
ドランさんが立派なヒゲを振り乱して猛反対するパニックを起こしたッス。
「正気かよ! あいつは魔王を倒すだけのバグ野郎だぞ! 確かに今は隔離室で命令通りに動いてるかもしれないが、物理空間へと俺たちと同じ場所に直接解放したりしてみろ! もし少しでも制御が外れて暴走したら、オーウェンのウイルスどころか今度こそ俺たちインフラ屋が真っ二つにされるかもしれないんだぞ!」
「リスクが高すぎるッス! ガルムさんでもあれを外の広大なシステムの海に物理的に出したらもう絶対に止められないッスよ!」
俺も思わず声を上げてしまったッス。
いくらなんでもカンストしたステータスを持つ物理法則を完全に無視したバグを、手綱なしで世界に直接放り出すなんて前代未聞の狂気の沙汰ッス。一歩間違えれば世界が終わる前に俺の首が飛ぶッス!
だが。
ガルムさんは少しも迷うことなく隔離室の幾重にもロックされた制御パネルに手をかけたッス。
「文句言うな、お前ら。……あいつはもうただの制御不能なバグじゃねえ」
ガルムさんは隔離室の中でまっすぐに自分を見つめ返してくる勇者の強い目を見て、獰猛でどこか父親のように誇らしげな笑顔を見せたッス。
「俺と同じ泥水すすってきた、俺の直属の最強の部下だ。……信用してやれ」
その重く力強い一言で。
ドランさんもトカゲの先輩もそして俺も。
一切の反論の言葉を完全に飲み込むしかなかったッス。
何千年もの間誰一人信じずに全てを一人で背負って文句ばかり言っていたガルムさんが、自分の命を天秤にかけてまで信用しろって言い切ったんスから。
ガチャンッ……プシュゥゥゥー……。
重い油圧の音と共に。
絶対に開けてはいけなかった隔離室の分厚い扉のロックが外の世界へ向かってゆっくりと解放されたッス。
流れ込んできた生臭い地下室の空気を味わうようにHERO-010は一歩、隔離室の外、現実の物理領域へとその白いブーツを初めて踏み出したッス。
「頼んだぞ。あのオーウェンの逃げ隠れするクソったれな怨念をお前の意志で叩き斬ってこい」
ガルムさんがシステムコアの奥、最も深い暗闇の方角を指差す。
「……マカセロ」
HERO-010は短くけれど力強く頷くと。
そのまま振り返ることなく聖剣を両手で構え、地下室の巨大なサーバールームの奥、メインコアシステムが鎮座する最深部へと一条の白い光となって爆発的な速度で飛んでいったッス。
頭上の赤いタイマーが重い音を立てて『10:59:59』を刻んだッス。
残り時間はついに十時間台へと突入した。
「……見ろ! 完了率の低下が止まったぞ!」
トカゲの先輩が嬉し泣きのような声でモニターを指差したッス。
オーウェンのウイルスによって一時七十パーセントまで無残に削られていたシステムの修正完了率の数字が。
勇者が突入した直後から赤から緑へと点滅を繰り返し、再び七十二パーセントへと一気に恐ろしい強引な速度で上昇を開始し始めているのがはっきりと見えたッス。あいつの放つ聖剣がオーウェンのコアを確実に削り取っている揺るぎない証拠だった。
「……フッ。言ってくれるじゃねえか。あとはあいつに泥臭い大ボスを任せるしかないな」
ガルムさんが愛用のヨレヨレの白衣を翻し再び自分のキーボードの前にどっかりと腰を下ろしたッス。
その目にはこの長い長いデスマーチの本当の終わりを見据える確かな光が宿っていたッス。
「さあ、お前ら。あともう一息だ。最前線はあいつが身体を張ってくれてるんだぞ。俺たち後方支援が遅れをとってどうする。システムが完全に立ち上がるまで残りのエラーコードを一つ残らず全て直し切るぞ」
最終決戦の夜明けまであと十時間。
人間のシステム屋と自我を持ったバグの勇者。
決して交わるはずのなかった極端な二人の共闘が悪意を砕き新世界アルゲリアの本当の歴史を変えようとしていたッス。




